空気譚

 
『HAIRは、HEADを包み込むAIRである』
 かつて、思想家の「です孔子」が云った言葉を、男は想い浮かべた。どのように解釈すればいいのか判然としないが、意味深ではある。彼自身が「私の言葉は単にもっともそうな言葉を並べているだけである」と言い放ったことが、むしろ勘ぐりを誘うのだった。それに、生前のです孔子はスキンヘッドだった。先の言葉はAIRを喪った男の嘆きの唄だったのかも知れない。
 
「高濃度の酸素を求めて海から陸に上がって以来、陸上生物の悩みは激増した」
 男は呟いて腕時計に眼を遣った。21時だった。ベンチから腰を上げて、尻を両手で払った。
 三十分ほど歩いて自宅のマンションに着いた。「1005呼」と押すと自動ドアが開いた。エレベーターに乗って、胸ポケットの封筒から万札を一枚引き抜き、腿のポケットに仕舞った。
 ドアノブを捻ったが、ドアの向こうで誰かが抵抗していた。息子だ。私が力を込めて引くと、息子は手を放す。よろけた私を目撃した息子は、大笑いしながら居間へ逃げ去るのだ。
「おかえりなさーい」と妻の声が聞こえた。青魚の匂いがした。鯖の塩焼きだろう。それもおそらくはスウェーデン産の。
 息子はカーテンにくるまって隠れている。私は気づかぬ振りをしながらネクタイを解き、頃合いを見計らって息子に迫り、抱きかかえる。無邪気で、気違いじみた様子だった。私は息子を愛しているが、些か心配でもあった。
 ホルスト・ガイヤーの言葉が頭をよぎる――
『うるさい馬鹿を注射でおとなしくしても、静かな馬鹿になるだけだ』
 私はその注射に大量のAIRを混入させる事を夢想したが、すぐに掻き消した。それに、息子は幼い日の私とそっくりだった。ドアノブを押さえるくらいは、可愛いものだ。
 私の場合は、父が帰宅する時間になると玄関に大量の画鋲を撒いて、すっかり忍者気取りだったのだから。
 
 キッチンの妻に歩み寄って、給料袋を手渡す。我が社は振り込みではなく、役員に限っては手渡しなのだ。妻は封筒を覗き、満足そうに口元を歪めて、上目遣いで見つめながら私の左手を握った。
 
 今朝、私はギターを抱えて出社した。それを不思議に思った妻は「あなた、どうしてギターを持ってるの?」と訊いてきたが、セミプロのミュージシャンである友人のレコーディングの為に貸し出すのだ、と言っておいた。
 1968年製のGibson ES-335、購入金額は980,000円だった。それほど古くないのに高価な理由は、「スパークル・バーガンディ・ミスト」と云う珍しいカラーの所為だった。元はFenderのキャンディー・アップル・レッドによく似ている色だが、年月を経て退色し、トップはほとんどゴールドだった。だがバックはまだ色が残っていて、私はそれが気に入っていた。
 やっと妻を説得して買ったギターを、中古楽器屋へ持ち込んだ。私の全身を下から上へ舐めるように見回した店員は、私を奥の小部屋へ誘った。
 フレットの減り、ネックの角度に難癖を付けて「500,000円がいいとこカナ」と宣った。私は頭に血が昇って、耳が遠くなった。
 
 自販機にお茶を産ませて、正午過ぎの公園のベンチに座った。なるべく端を陣取ったのは、私だけが手製の弁当だからだ。学生時代に貧しい弁当を隠しながら喰ったように、胃袋に放り込んだ。傍らの灰皿に残ったお茶を流し込んでいると、黒ずくめの女性が正面に立ちはだかって「貴方の血を綺麗にしましょう」と仰った。
 柔らかく断ったが、彼女は強引だった。腰を屈めて、至近距離の私を見つめながら「貴方は汚れています」と言った。その瞳はガラス玉みたいに、チープな美で満ちていた。
 されるがままに呪文を聞き終わると、彼女は満足そうに早歩きで去っていった。そして遠くのベンチでも腰を屈めていて、その相手はミニチュア・ダックスフントだった。
 
 私がエア出勤を始めてから、二週間が経っていた。
 ヒューバート・サムリンやエディ・テイラーのような、燻し銀のギタリストが好きだった。仕事も、そういう風にやってきた。誰よりも忠実で機転が利いていた。寡黙だったが、それ以外の全ては備えているという自負があった。
 だがそれが仇となり、会社を追い出されてしまった。私はナーナーな“雰囲気”を嫌悪していたが、最期は私を追い出す雰囲気で満ちていた。
 明細を貰いに会社へ行かねばならなかった。明細書をきちんと見たのは始めてかも知れない。
 エア残業で、退職金もエアだった。
 
 深夜、息子を挟んだ川の字で、天井を見つめていた。明日のエア出勤が憂鬱だった。
 私は力を込めて天井を見つめた。壁紙の皺を見つめていればそのうち透視できて、上階の寝室が透けて見えるかも知れない――だが、我が家は最上階である事を想い出して、星の中で私は眠りに堕ちた。
 
 翌日、男は有給休暇と偽って休んだ。平日の妻は、息子を連れて幼稚園へ行った。
 予め用意しておいた、ホームセンターで買った蛍光色のロープを押し入れの奥から取り出す。
 端を両手で握って、強く引いてみる。無慈悲なまでに頑丈だ。
 風呂場の点検口を開けると、X軸の頑丈な柱が露出する。
 柱にロープを掛けて、首をくくってみる。化繊の感触はひんやりと冷たかった。
 だが、プルオーバーの洋服を脱ぐような気軽さで、男は首輪を脱いで、電話の横にあるメモ帳に遺書をしたためた。
 さんざん書き直したが、結局は「さようなら。ありがとう」に落ち着いた。
 もはや男は舌なめずりをしていて、死ぬ気満々だった。重力崇拝主義者だった。
「ワーイ!」
 着ぐるみを身につけるように、顎に両手を遣って、輪っかに首を突っ込んだ。
 X軸は、一瞬だけ、しなった。
 醜い死に様だった。目玉は飛び出ていて、足下には排泄物のユートピア、千年世界。そのくせ股間は、屹立していた。
 
「ウハハハ!」
 男は笑い声を上げて体を起こし、冷えた寝汗に身震いした。
 息子をまたいで、妻が隣に寄ってきた。すがりつくように、男に添った。
 妻はなにか寝言を云った。よく聞き取れなかった男は、妻の頭にそっとキスをした。
 
「プゥ〜」
 妻のAIRに男は笑って、残り香に夢を更新して、久し振りの熟睡をした。