深夜三時頃、冷蔵庫の中を物色していた。煌々と照明が灯ったままカーテンは開けっ放しだったので、外から見れば俺は立派な泥棒だろう。でも、はたして泥棒が冷蔵庫を漁るだろうか?
 缶ビールを取り出して呑む。サッポロ黒ラベルだ。地元なのに申し訳ないが、俺はこのビールがあまり好きじゃない。
 独り暮らしにしては立派な冷蔵庫で、中身も様々な食材が詰まっている。冷凍物や瓶詰めはしばらく保ちそうだが、野菜は全て破棄しなければならない。キャベツの断面も黒ずみ始めていた。俺が持ち帰ってもいいが、そうなると今度は自宅にあるキャベツを棄てる羽目になってしまう。
 いまどき珍しく瓶に入った牛乳があった。森永カルダスという銘柄で、週に何度か配達されるようだ。困ったことに十本近くストックされており、追加で〈飲むヨーグルト〉も頼んでいたようだ。
 俺はかつて「飲まないなら解約しろ」と諭したんだが、配達の人があまりに人が善いのでそれは出来ない、との事だった。ハッと気づいて玄関先の箱を開けてみると、牛乳とヨーグルトがそれぞれ二本づつ入っていて、脇にあった氷嚢はすっかり溶けていた。
 ビール、それも黒ラベルの直後に飲むのはどうかと悩んだが、バリウムよろしく胃袋へ流し込み、このカクテルを「ホワイト・アイ」と命名した。
 ガスレンジの脇に隠されている灰皿を取り出して、煙草に火を点ける。空は白く、無音で、久し振りに日の出を見た。昇る速さは、暮れの速度よりも男性的に思えた。それもやかましく、押しつけがましい男。呼んでもいないのに毎晩窓に小石をぶつけやがる、富山の薬売りジャンキー版のような図々しさだった。
 すると、カサカサカサ、と妙な音が聞こえた。一瞬ギョッとしたが、蜂やゴキブリのような害虫でない事は、なぜか分かった。
 音の主は亀だった。
 水槽の四隅の内、こちら側に腹を向けて身を起こし、全身で藻掻いていた。飼い主が居た頃、俺がこの亀に近寄ると影を察知して首を引っ込めたのだが、今やその様子は微塵も無く、俺にだっこをせがんでいるようにさえ見えた。
 水は濁っていた。空腹で暴れているのだろうと思い、餌を探すも見当たらない。あらゆる所を探したが、見つからなかった。
 冷蔵庫から二本目のビールを取り出して、飼い主の性格を思案した。異常に几帳面なので人間の食べ物とは一緒に置かない事は決定的だった。かと言って衣服の近くにも置かないだろう――俺はベランダに飛び出したが、餌は無かった。泥棒よりも丹念に部屋中を小一時間は探しただろうか。仕方ないので、試しに冷蔵庫に入っていた鮭フレークをひとつまみ、亀の頭上に落としてみた。亀の動きは一瞬止まったが、食いつく様子はなかった。
 しばらく経って水槽を覗き込んでみると、鮭フレークは消えていた。亀は鮭を喰っていた。亀は肉食なのか、と顎に手をやっていると、テレビの陰に餌を発見した。チップスターのような厚紙でできた筒状の容器だった。
 それを手に取ると、亀は容器を目で追った。俺は亀を見下ろしながら、ゆっくりと蓋を捻った。じらしてみると、亀の首は伸びて、喉仏が動いたんだった。
 燃え尽きた線香の破片みたいな餌を食い終わった亀は、おとなしくなった。与えられた全てを食べてしまう事はないようで、水面には残りの餌が浮いていて、俺は亀に老人じみた約しさを垣間見たんだった。
 
 翌日、亀を逃がしたらどうかと飼い主に進言した。無論、逃がすのではなく、棄てるのだが。
 俺は、飼い主がこの亀を特に愛していない事や、知人からほとんど無理遣り渡された亀だと知っていた。だから俺は、亀に男性的な象徴を感じた飼い主が、古いお守りのように亀を飼っているのだろう、と干渉はしなかった。だが、今となっては、亀は邪魔だった。
 飼い主は饒舌だった――「近所の大型スーパーの隅に池があるので、そこへ逃がしなさい」
 現在スーパーが建っている所は、元々は地主の土地で、広大な敷地に庭や池があった。その名残として、池だけは未だに残っているらしかった。
 
 二日後、亀に会いに行くと、二日分の餌を与えた所為で水槽は異様に濁っていた。それでも気配を感じた亀は、こちら側に腹を向けて暴れ始めた。
 俺は、かつて飼っていた犬を想い出した。
 亀じゃなくて犬だったのなら、飼い主のそばで吠えていただろうか。それとも唇を舐め続けただろうか。いや、亀だって水槽を出て寄り添いたかったに違いなかった。
 亀の暴れっぷりは異常だった。餌を残して、こちら側に腹を向けて、俺を睨み付けたんだった。
 
 亀を取り出して、風呂場で甲羅を洗ってやった。たわしでガシガシ洗うと、古い甲羅が薄く剥けた。
 シャワーの飛沫が頭に当たると首を引っ込めるが、またすぐに頭を出す。〈亀頭〉とはよく言ったもので、仮性包茎そのものの動きだった。もっとも、手を使わずしてそれが出来るという意味では、人間よりもずっと高級なのだが。
 
 亀をバケツに入れてスーパーへ向かう。夕暮れ時だったが、日曜なので人は少なかった。
 池は2メートルくらいの高さの柵で覆われており、柵の幅は20センチほどだった。中には鯉らしき魚がたくさん居たが、亀は見当たらなかった。
 甲羅の直径が20センチほどある亀の腹と甲羅を片手でつまんで、柵に肘を入れてから、振り子の原理で亀を池へ投げ入れた。
 ちゃぷんと沈んだ亀は、突然の野生にショック死してしまったように思えた。
 だが数分後、亀は浮き上がっていた。俺は、もう用無しの亀の餌を池へ振りかけた。
 不思議な事に、沢山いる鯉のどれ一匹として亀の餌には反応しなかった。
 当の亀すら、餌よりも広い池に夢中で、それは童話を想起させる泳ぎっぷりだった。ラッセンは大嫌いだが、ラッセン的だった。
 
 飼い主に、亀を逃がしたこと、でも広い池で生き生きとしていたことを、なるべく綺麗に話して聞かせていると、飼い主は少しだけ頬笑んで、眠ってしまった。
 眠りの中で、四肢を一杯に伸ばして泳いでる夢を視ているのかも知れない。あるいは、亀に跨って縦横無尽に海中夢を視ているのかも知れない。
 この水槽じみた、病室の中で。