包茎社会のまんち狩り

 
 今日は卑猥な言葉が連発しますし、フェミニストは読まない方がよろしい、ですこです。
 紳士淑女や、猛烈な社民党支持派は読まないで下さい。この警告を無視して読み進み、あとで怒りを覚えてもそれはぼくのせいではありません。あなたが自らの好奇心を飼い慣らすことができなかっただけ、です。
 どうぞ、“読まない自由”を行使して下さいませ。
 
 今度は麻生太郎が「アルツハイマーの人でも、これくらいは分かる」と発言したことが物議を醸しているわけですが、一体どうなってるんですかね、この国は。
 いや、確かに閣僚クラスの人物が安易な失言をおかしてしまうのは考えものですけど、ここまでくると単なる言葉狩りだと思えて仕方がありません。大臣ともなれば大勢を相手に一人で演説する機会も多く、そしてこういった失言はおおむね『たとえ話』によって発生し、それも自分では気の利いた台詞だと思っているとき、つまりリップサービスに禍因があるわけです。そうなりますと、能なし安倍総理のようにロボット・トークせざるを得なくなってしまうというわけです。そして我々は、それを決して褒めない。
 それに、今まで日本では政治家が数々の失言をおかしてきたはずですが、政治家の失言を糾弾しはじめるようになったのは、たぶん森喜朗が首相だった時代からです。もっとも、彼の場合は怒りを通り越して呆れ果ててしまう無神経さでしたが、いま思えばちょっと笑ってしまう。可笑しい。頭がオカシイ!
 つまり、2000年辺りから政治家の失言が目立ってきた――といよりも“目立たされてきた”と言えましょう。また、同時に言葉狩りも始まっていたのです。精神が分裂することと、統合能力が失調をきたすこと、この二つの語句の違いに一体なんの意味があるのでしょうか?
 ちんぽは〈ちんちん〉と可愛く呼べますが、まんこは〈まんまん〉と呼びません。頭を悩ませた政府はかつて、女性器の俗称を一般公募したことがあります。そこで選出された言葉は――
 
 おぱんぽん
 
 でした。なんぢゃいそれ。
 むかしお付き合いしていた恋人が、下腹部を押さえながら「まんち痛い」と言っていました。ぼくはなんのことを言っているのか判りませんでしたが、彼女はまんこのことだと言いました。ぼくはちょっと感動しました――「まんち! それイイ! 可愛い!」と。
 少なくとも〈おぱんぽん〉よりは〈まんち〉の方が優れていると、ぼくは思います。
 ぼくは今でも、その時の彼女の様子をありありと想い出すことができます。
 茶髪のボブで痩躯、部屋の中では常に素っ裸で、両手で陰毛を押さえつつ膝をX状に重ねながら、「まんち痛い」と言ったのです。
「まんち?」ぼくは訊き返しました。
「まんち、まんち」彼女はピョンピョンと跳ねました。
 昨夜の行為が身勝手に激し過ぎたのでしょう。ぼくは「まんち」という言葉によって、女性器が、ある種の傷口であることを想い出したのです。
 
〈ちんぽ〉と呼ぶとなんだかちくわぶを想起させますが、〈ちんこ〉と呼ぶと赤ウインナーを連想させて、ちょっとだけ可愛い。乱暴じゃない。
 同じように〈まんち〉と、語尾を変えるだけでなんだか可愛らしくて、清潔です。学名:ヌレシラズ、的な。それに、愛しさだって感じてしまうではないですか。
 
 言葉狩りじゃない失言で最も話題になったのは、柳沢厚生労働相が放った「女性は子ども産む機械」という発言でしょう。世の中には、ここからバロウズのソフト・マシンを想い出して、ロバート・ワイアットの「ロック・ボトム」まで到達するという、凄まじい感受性の持ち主も居るようです。
 ぼくはこのとき、たまたまニーチェの本を読んでいました。古本屋で100円だったんです。翻訳された本は読みにくくて大抵の場合は途中で放り投げてしまうのですが、この本は翻訳が素晴らしかったのでスラスラと読むことができました。リチャード・バックを翻訳したときの、村上龍なみの仕事です。
 

この人を見よ (新潮文庫)
ニーチェ 西尾 幹二
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 柳沢厚生労働相の発言を知ったあとでの、ニーチェの言葉はとても印象的でした。
 まず、こう切り出すんです。

私は女をよく知っている人間だという推測を、敢えて述べることをお許し頂けようか?

 そして、

ひょっとすると私は「永遠に女性的なるもの(ファウストの一節)」の機微に通じた最初の心理学者かもしれない。女という女はみな私を愛してくれる――とはいえ、子供を産む道具を失った「解放された夫人たち」は、また話は別だが。

 大幅に略すが、ニーチェはこう〆る。

「女性解放」とはなにか? これは、うまく一人前にならなかった女、すなわち子を産む力を持たない女が、出来の良い女に対して抱く本能的憎悪のことである。彼女らが男に戦いを挑むと言っているのは、いつもただ手段であり、口実であり、戦術にすぎない。彼女らは“自分たち”をもっぱら「女そのもの」、「高級な女」、女の中の「理想主義者」として持ち上げることによって、じつは女の一般的な位階水準を“引き下げる”ことを欲しているのだ(後略)。

 
 なんたる失言でしょうか(後半はもっとカゲキです)。昔の人です、しかもキチガイです、赦してあげて下さい。でもでも、ちょっとだけ共感できるぼくがいることを、告白しておきます。
 
 このニーチェの引用によって、当ブログは炎上してしまうかもしれません。
 もっとも、すでにちょっと燃えてはおりますが。