トマトはいつかあなたを踏みつぶすでしょう

 
 ナス科最高ぉぉぉっ、ですこです。なめんなよ、ナス属をよ。ナス科が地上から消えたら絶対に泣くよ?
 
 すっかり実家が片づいた代わりに、大量の不要物も現れた。荷物の整理を任せた代償として、これらはぼくが片づけなければならない。整理してくれた親族に感謝はするが、考えてみれば不公平でもある。なぜなら、ここからはぼく一人でやらなければならないのだ。ま、いっか。
 発病以降、初めて実家へ帰宅した母を見て、再確認した。おそらくは鬱病の初期状態にあるものと思われる。病院ではリハビリ最優先で、メンタル面については重視されていないし、“そういう病院”ではない。これは入院期間を限定している法律もうまくできていて、おそらくは「発病後約半年で精神的疾患が顕れる」との統計があるに違いない。ゆえに厚生労働省は、各病院に対して「リハビリ以外は無視せよ」との指導をしているに違いない。以上はぼくの憶測だが、おそらく正しいだろう。
 実際のところは人間の精神――つまり脳に未知の領域がありすぎて手に負えない、ということなのかもしれない。
 何年後か、脳の全容が科学者によって解明される。そして全ての精神病や脳疾患の治療が可能となって、人類は驚喜するも、今度は戦争が激増して、科学者たちはやっぱりあたまを抱える。
 
〈アタック・オブ・ザ・キラートマト〉を鑑賞する。スカム・ムービー(そんな言葉あるのか)の最高峰と名高いその内容は、増殖し巨大化したトマトが大暴れして、ついには人類と全面戦争をして観る者の唾液腺を刺激する、というトマト好きには堪らない映画となっとります。
 本当に、ほんとうに、チープでクダラナイ映画だが、ぼくは好きだな。こんなにクダラナイ映画が撮影され、商品として流通し、今ではDVD化されていることが嬉しいじゃないか。なんていうのかな、人に優しくなれるね。受け容れる、ってこういうことなんだよ。結局は、愉しむためには能動性が必要だってことさ。ぼくはこういう映画をシアターで恋人と一緒に観たいな。
 そしてレストランでお互いに映画の感想を話し合うんだ――
「冒頭のヘリコプタ墜落シーンの迫力はなかなかだったね」「そうね。でもわたしはマンホールからトマトが出てくるところにシビレちゃったわ」「ああ、あのシーンも最高だった。最後に強大トマトが滑り落ちてくるシーンもね」「嗚呼! トマトが食べたいわ!」「ここはイタメシ屋だ。好きなだけ食べなよ」「だめよ、こんなにしおれたトマトは」「ゴロンと冷やしたのがうまいんだよなぁ」「そう……ブツ切りにして――」「砂糖をまぶして?」「そう! それがいいわ!」
 男はあらかじめ、砂糖をまぶしたトマトを自室の冷蔵庫の中に用意していた。
 初夜のベッドが不器用に軋む。
 中心にはトマトピューレの染み。
 
 次は〈死霊の盆踊り〉や〈毒毒モンスター〉、〈バスケット・ケース〉を観たいけど、はたしてDVD化されているのだろうか。
 ゾンビの発祥についてはよく知らないんだけど、たぶんアメリカ人特有の死生観の顕れだろうと思う。
 土葬が一般的なアメリカ人は、日本軍による奇襲攻撃によって沈没した戦艦〈アリゾナ〉の引き揚げを行わず、『アリゾナ・メモリアル』として今も真珠湾に現存している。
 戦艦の中にはとうぜん死者もいるはずだが、彼らは引き揚げない。「そのままそっとしておけば戦死者はまだ息をしている」とアメリカ人は考える。
 これは遺骨収集に熱心な日本人とはまったく違う死生観で、例えば遺骨収集に熱心だった川内康範氏などは、その時の体験を元として〈骨まで愛して〉という曲の作詞を残した。
 希望的観測の逆襲としてのゾンビ観、骨まで愛した結果の妖怪たち――この考察は面白いかもしれない。
 ああ、トマトが食べたい。血はもういいっス。