未完の形見

 
 日曜日の母はいつもソファで寝ていた。今のように週休二日じゃない上に、子供を三人も抱えて心身共に疲労していたのだろう、外出をせがんでも「こわい、こわい」と言うばかりで、いつしかぼくも諦めて母にせがむのをやめた。
 
 小学校高学年、確か四年か五年の頃だったと思うが、母の方から「どこか行こうか」と言った。心の中では嬉しくて小躍りしたが、態度には表さなかった。二人でスキー場に行くことに決めた。といっても、冬ではなく初夏である。その季節でもリフトに乗って山の上まで行けるのだ。
 天候は曇りで、リフトに座った母も疲れた様子だった。ぼくはなんだか申し訳ない気持ちになって、無理遣り愉しく振る舞った。お互いにすっかり疲れてしまった。
 帰り道、自転車屋があった。当時のぼくは兄のおさがり、それも恐らくは盗難車に乗っていた。
「自転車、買ってあげようか?」
 母は言った。目が点になったと同時に、奇跡が二つも重なって不穏な空気に変化した。
 そうは思いつつも、高い自転車を指さした。当時で6万円くらいの、デジタルスピードメーター付きで最新型である。
「先に帰りなさい」
 母は手をひらひらさせてぼくを急かした。自転車に跨って漕ぐと、速度に応じてメーターの色が変わった。母を振り返ることも忘れて、信じられない悦びに身を委せて風を切った。その足で姉夫婦の家に寄って自慢をした。義兄は「鍵を買いなさい」と言って五千円を寄越した。
 
 夕食を食べ終わり、母と共同の部屋でキン消し遊びをしていると兄が帰ってきた。ドアをあけてすぐに怒鳴り散らしているのが聞こえた。母も叫んでいて、ただならぬ気配を感じた。ぼくが買ってもらった自転車が原因なのかと思い、心臓がドキドキしていた。
 すると「バリーン!」とガラスの割れる音がした。おそるおそる居間を覗いて見ると、鏡台が倒れてガラスが粉々に割れていた。母はうつむいていて、兄は部屋に戻って乱暴にふすまを閉めた。
「おーい! ちょっと来い!」
 兄の怒号がふすま越しに聞こえたので、小走りで向かった。すでに後悔の顔色を見せながら「絆創膏持ってこい」と言った。兄の足は割れた鏡の破片を踏んづけて血だらけだった。風呂場では母が啜り泣いていた。不憫な上に自転車の恩もあるので、母の背中を流しつつ慰めた。
 揉め事の理由は、当時18歳だった兄が免許取得の際に必要な費用の事だった。
「免許のカネ貸せ!」
「誰がアンタみたいな暴走族にカネ貸すか!」
 と、そういう押し問答だった。
 
 絵に描いたような積み木崩し家庭の長である母は、教室に通って油絵を趣味としていたが、積み木崩しが理由で途中でやめた。描きかけのひまわりの絵は、いまでも実家の居間に飾られている。
 
 どうやって実現したのかは解らないが、兄はNISSANブルーバード510に乗って帰ってきた。旧車好きなら知っているだろうが、『ハコスカを買えないヤツが乗るクルマ』である。当時としてもレトロで、なおかつ完璧にカスタムされていた。本当にカッコイイ車だった。
 よく助手席に乗せてもらったが、いつも途中で降ろされた。女や知人を見つけると、ぼくを降ろして「タクシーで帰れ」と千円札を寄越すんである。そのお金でタクシーに乗ったことは一度もなく、徒歩で帰ったし、また充分に帰られる距離だった。
 丁度その頃、ぼくは自転車の軽量化に乗りだし、せっかくのメーターやカゴをすべて取っ払った。
 爆音のブルーバード510と、ナナフシみたいな自転車を見た母は激怒していたが、鏡台が無い事を除けば以前と同じ日々だった。
 その後、二十歳になった兄は家を出て行き、ぼくは空いた一人部屋を満喫する事になる。兄の友人が「寂しいべ?」と問うたびに、曖昧に微笑んで狂喜を隠した。
 
 最近、実家に帰ると母がよく言う。
「アタシが死んだらこのサイドボートとタンスはアンタにあげる」
「要らねーよ」
「高いのよ、これ」
「ねーちゃんかにーちゃんにやれよ」
 
 描きかけのカンバスに紫煙を重ねながらそう言った。
 
 
 
 以上は車谷長吉の本を読んでインスパイアされたぼくなりの即興私小説モドキである。なんか知らんけど書きたい衝動に駆られたが、書いてみればなんのことはない、ただのいい子ちゃんになってしまった。クソッタレ!
 念のため。ワタクシゴトのすべてが事実だとは限らないので誤解無きよう。ぐふふふ。
 

塩壷の匙
塩壷の匙
posted with amazlet on 06.10.26
車谷 長吉
新潮社
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 とても面白い短編集だった。こんなに凄い本があるんだなぁ。