ノロケる人は呪われる

 
 プッチンプリンのプッチンがパキッと鳴る事や、ハッピーターンはひとくち目しかハッピーじゃない事などすべて赦している、仏陀ですこです。ニグロパンチです。
 
 イヴの夕方、千葉在住のS氏から
「いま札幌に来てます」と、メールが来る。
 彼女と会っているのだろうと推測し、
「また来たんですか。日にちが合えば会いましょう」と返信する。
 21時過ぎに再度、
「彼女にはフラれました。いまからK師匠の店に行きます。君が来ない事を希いつつ」
 と、じつは懸念していた通りのメールが来る。(誘いを蹴ったGよ、赦せ。)
「あとで行きます。待ってて」と返信する。
 今夜使う予定だった腐りかけの椎茸をごみ箱に捨てて、出発。タクシーを拾ってすぐさま到着。お釣りが百円以上の場合は、ちゃんと貰います。
 勢いよく店のドアを開けて「メリークリスマス!」と。客はS氏と、離れた所に見知らぬ壮年女性の二人。カウンターには鶏の丸焼きがあった。
「また来ちゃったよ」とS氏。
「月いちで来てるね。随分と休みが多いんだなぁ」
「いや、検査入院と称してさ」
「うははは!」
 冷蔵庫から勝手に小瓶のビールを取り出して乾杯。
「ですこはどこが好きなんだ?」とK師匠。
「女性なら胸ですけど、鶏なら腿です。いや尻かな?」
「どっちだよ」
「女性です」
「鶏の話だよ!」
 手際よくナイフでさばくK師匠。
「コレって手作りなんスか?」
「ったりめーだろ」
「器用っスね」
「オーブンがな!」
 
 
 S氏は、先月の彼女の誕生日も今回のクリスマスも、めげる事なくプレゼント持参でわざわざ飛んできた。にもかかわらず、会う事を頑なに拒んでいるようだ。一時期はいい感じで結婚直前まで発展したのだが、度重なる“不可抗力”がキッカケで関係が崩れてしまった。誰も悪くないのに、である。
 S氏34歳、彼女は32歳、バナナならば食べ頃はとうに過ぎている。どうやら彼女の友達や先輩の負け犬どもが、沼地に引きずり込むゾンビのように彼女によからぬ事柄――それも確かでない邪推――を吹聴しているようだ。
 それを抜きにしても、なぜS氏の愛情を彼女が感じられないのか、ぼくには理解できないし、怒りすら覚える。他人の恋路に口を挟むべきではない事は、ぼくもよく解っている。だがね、ちょっと違うんだ。まったく説明しがたいんだが、悪いのは女ダ! と断言しちゃう。
 
 こういう話って、「女性なら嬉しいよネ」とか言われますけど、男だって嬉しいですよ。
 だって、こんなに愛されたらさー、鼻の頭に付いたソフトクリームをお互いに笑いながらー、お花畑を走り回ってー、捕まえてごらんなさーいと逃げる彼女が転んで見えたパンティに欲情しつつでも長いスカートを戻すと見せかけてスカートの両端を頭の上まで持ち上げて固く玉結びをしてー、20円を置いて走って逃げたくなるぅー(お前バカだろ)。
 
 ぼくはノロケが苦手なんですよね。たぶん、この長い間のブログでノロケた事は無いと思うし、ノロケの時は“休止”しているはずです。まぁ、ギターにはノロケますけど。
 他人のノロケって、とても醜いんです――と、書くと「ひがみだろ」と言われちゃうんだけど、そうじゃないんですよね。恋の話は危ういほど面白いし、調子づいてるやつは薄っぺらいほど面白いんですよ。
 たかがブログでも、やっぱり書き物で、誰かが読んでるんです。例えば、ブログで他者を批判して炎上という現象は、好きな事についてじゃなくて、嫌いな事について書いているからであって、その対極としてノロケがあるんじゃないかな、とぼくは思います。炎上こそしないけれど、凍てつくことは必至ですよね。
 幸福も不幸も、わざわざ言われちゃうと、見てる方はひいちゃうんだよ。「じゃあ、みんな何を求めているの?」なんて、そんなモン、お前の右心房に訊けよ! 左心房でもいいけどよ!
 
 幸福が、見せびらかしたり隠したりするものでなければ、不幸も同じで、そうしたらいい。
 幸福が、分かち合うものならば、不幸もそうしたらいい。
 
 読み物とはおそらく、後者の背中をさすり、時に背後から肩胛骨を噛んだりする行為なのかも知れません。