輪っかは遠くまで

 

未成年者誘拐:苫小牧の暴力団員逮捕 9歳児を事務所に連れ去る /北海道

苫小牧署は9日、苫小牧市元町3、暴力団員、無職、松原哲也容疑者(32)を未成年者誘拐容疑で逮捕した。
調べでは、松原容疑者は1日午後7時ごろ、同市内の銭湯で、1人で来ていた同市の男子児童(9)に「うちでゲームするか」などと声をかけて連れ去った疑い。松原容疑者は、男児を自分が寝泊まりする組関係の会社事務所まで歩いて連れて行き、ゲームをさせた後、同日午後8時ごろ、タクシーで男児の自宅付近まで送ったという。男児にけがなどはなかった。
男児の親から同署に「息子が帰ってこない」と届け出があり、行方を捜索していた。松原容疑者は容疑を認めている。男児とは面識がなく、同署で動機を追及している。【笈田直樹】
毎日新聞 2007年3月10日

 


 
 富士山の中腹が、カビで黒ずんでいる。
 
「カビキラーでカビは死なない。黒カビが白カビになるだけだ。それにこの絵は羊蹄山だ」
 苦情に対してそう吐き捨てた番頭の発言は本当なのだろうか。
 
 今日はゆず湯の日だ。といってもゆずが丸ごと浮かんでいる訳ではなく、食べ終えたゆずの皮が申しわけ程度に浮かんでいるだけだ。
 事務所に常駐している身分としては唯一ひとりになれる空間だ。彫り物のある人間が入場禁止だなんてのは大衆浴場の話で、この寂れた小汚い銭湯には関係のない話だった。それに毎週木曜日のこの時間帯は男の貸し切りだ。
 湯船から出て風呂椅子に座り、蛇口から勢いよくお湯を出して桶に溜めて呟いた。
「ケロヨンねぇ、効かないぜ。痛みを止めるならPCPに限る。もっとも、他人の痛みにも鈍感になっちまうけど」
 
 躯と一緒に坊主頭も泡立てて、お湯をかぶる。尻に懐かしい、或る感触を覚える。そういえば最近ソープに行ってない。明美のやつ、元気かな。爪先まで演技をする女優だった。イク! なんて言わない。焦げちゃう! って言うんだ――
「うはははは!」
 男はにやけた後に声を上げて笑った。
 昼間に洗車を命じられた若頭の車の色が、スケベ椅子と同じ色なのを脳裡で描いた。
 
 全身を流し終わり浴槽へ向かうと、背後に気配を感じた。またあのもうろく爺さんか。今は俺の貸し切りだ。凄味を利かせて振り返ると、股間に芋虫をぶら下げた男児が立っていた。片手には今どきシャンプーハットを持っている。
 男は狼狽えた。子供は嫌いじゃない。兄貴分たちのガキ共の間では、絶大な人気を保持している。特に鬼ごっこが好きだ。鬼ごっこなのに顔は恵比寿だが。
 
 しばらく沈黙が続いた。出入前にも似た、緊迫したしじまだった。
「おじちゃん」
 先に仕掛けたのは男児だった。
「な、なんだ」
 男の顔は少し赤らんでいる。
「それ、なあに?」
「それって、なんの事だ?」
「背中にかいてある絵」
 男は咄嗟に考えた。
「ボディーペインティングって言うんだ」
「なあに、それ?」
「ゲージツってやつだ」
「ふうん。さわっていい?」
「いいぞ」
 男児は刺青を両手でまさぐったり、つまんだりした。
「こすってもぬれても消えないからペンキだね!」
 男児はにこにこ笑いながら得意気に言った。
 
 とことこ歩いて浴槽に向かう。
「おい、熱いぞ」と男が諭すと、爪先をちょこんとつけて、目を丸くした。
 男は小走りで浴室から出て、すぐに水を足すよう番頭に命じた。
「もうちょっと待ってろ。ぬるくしてやる」
 そう言った男の背後で、男児はまたペインティングをまさぐり始めた。
「なあボウズ。浴室に入る前に番頭が止めなかったか?」
「ううん。はいどうぞ、って」
「そうか」
 にやにやしながら番頭が入ってきて、浴槽に水を足している。男の方を向いて軽くウインクをした。男はケロヨンの桶を蹴っ飛ばして、番頭のくるぶしに当てた。
 
「もう入れるぞ」
 男が促すと、男児は爪先で湯加減を確認してから、ちゃぷんと浸かった。
 男は仁王立ちで男児を窺っていたが、体勢が不自然だと思えて、手持ちぶさたにさっき蹴っ飛ばした桶を元の場所に戻した。
「おじちゃん!」
 男児が声を張り上げた。
「あたま洗ってよ!」
 男児は湯船から勢いよく飛び出して、男の前の風呂椅子に座った。
 ぎこちない様子でシャンプーハットを被ると「いいよ!」と言った。
 桶に溜めたお湯をゆっくりかける。シャンプーで髪を泡立てて機嫌を窺う。男児は目を瞑っている。男はその隙に他の桶にもお湯を溜めておいた。
「もう流していいよー」
 と男児が言ったと同時にシャンプーハットを取り上げて、富士山の方に投げた。男児は目を瞑ったまま立ち上がって、あれよあれよと取り乱している。
 男は桶のお湯を勢いよく男児の顔面にぶっかけた。流れたシャンプーで転ばぬよう、素早く足下も流した。泣き叫んでいる男児にもう一度ぶっかけた。さらに、もう一度。
 男児は、シャーマンに操られた未開の原住民みたいに壊れていた。言葉にならない絶叫をしばらく続けて、疲れ果てて、沈黙した。
 
「なあ、ボウズ」
 男の呼びかけに、男児は応えない。
「目を開けてみろ」
「いやだ!」
「どうして?」
「シャンプーが目に入って痛いもん!」
「シャンプーはぜんぶ流したぞ?」
「じゃあお湯が痛いの!」
 男はゆっくりと男児に近寄って、背中を向けて屈み、男児の手を取って背中に当てた。
「触ってみろ」
 男児は目を瞑ったまま刺青をまさぐった。
「ゆっくり目を開けてみろ」
 男児は目を開けた。そして刺青を何度もつまんで、無邪気に笑った。
 
 男の膝の上に座って、湯船に浸かっている。端から見れば親子の絵図だった。
「どうする、それ?」
「もういらない」
 男児は、シャンプーハットをフリスビーの要領で遠くまで飛ばした。