DNA分子が螺旋状なのは偶然ではない

 
 うんこ漏れ蔵、ですこです。漏れ蔵のうんこは、受け蔵がキャッチします。こぼれた分は拭き蔵が始末します。両手一杯にうんこをのせた受け蔵のうんこを、煮る蔵が調理します。ここで焼き蔵と蒸し蔵を交えた戦いが始まりますが、そつがないという理由で大抵の場合は煮る蔵が選ばれます。オリーブオイルに香味野菜の風味を付けて、うんこを投入します。あとはブリブリ煮るだけです。ちゃぶ台では食べ蔵が大腸を長くして待っています。もうお判りかと思いますが、食べ蔵は次回の漏れ蔵になります――こうしてうんこ一家は暮らしています。かなりうんこ臭いのですが、蠅が集る余地はありません。
 このようにシモネタを書くと、特に食事中の場合に不快感を覚える人がおられるかと思いますが、より多くの不快感を与えるということはシモネタが普遍性を持っている事を表していますし、フロイト曰く「スカトロは成金趣味の顕れ」らしく、シモネタに対して不快感を示す人は札束や貴金属に対しても同じ態度をとる、のかと云えばそうでもなく、むしろ両手でバラ巻いて握ったり、口にくわえたり、身に付けたりと、やはりスカトロと共通項があるんですけど、それを頭ごなしに拒否する人に限ってなんの臆面もなく「ウコン入りカレー」を食べたりするので、世の中はむつかしい――という、ぼくの便と、屁つらい。
 
 武田邦彦という大学教授を御存知でしょうか。少し前に、やしきたかじんのテレビに出ていて、環境問題に関する矛盾や欺瞞をことごとくぶった斬った人です。ぼくは偶然その番組を観て衝撃を受けました。そのあとすぐに武田教授の著作を買おうと思ってAmazonにアクセスしました。在庫はありました。でも購入は見送って、翌日にやっぱり買おうと思ったら、もう在庫が無いのです。Amazon以外のショップもチェックしましたが、ことごとく在庫がゼロで、“せどり”による古本の高騰も見受けられました。テレビの影響で一気に売れたのか、それとも利権によるなんらかの権力が働いたのか、知る由はありません。 
 武田教授の話は少し眉唾な部分もありましたが『リサイクル=善』という圧倒的多数の“幻想”に一石を投じるという意味では希有な存在だと思えましたし、科学的な裏付けもあることは明白でした。
 ゴミを分別する事で「なにか善い行いをしている」と思いがちですが、分別する事によって発動しなけらばならないトラックの燃料とを秤にかければ、むしろ悪だそうです。更にペットボトルの再生率は僅か数%で(残りは焼却!)、尚かつプラスティックは完全な再生が不可能だそうですし、再生に掛かるコストが高い上に、強度が足りなくしかも高価な再生プラは誰も買わないそうです。だから燃やしてしまった方がいい、焼却炉の高温だと有害ガスも発生しない。リサイクル先進国のドイツを見習うだなんてトンデモナイ! というのが、彼の言い分です。
 彼の論説が100%正しいとは思えませんし、環境問題を地球全体の歴史で考えた場合、いまの暖冬なんかは屁みたいなもので、そうなると一番おそろしいのは「受動的な態度で情報を鵜呑みにする事」です。さらにそれで善行をしたような気になってちょっと自分にうっとりしたりと、なんて不細工なんだろう。
 ぼくは思いました。
 ぼくはなんてバカだったんだろう、と。ゴミの分別は出来たのに、情報の分別が出来ていなかった。それどころか、疑問すら持たなかったぼくは、ゴミだ!――などと、分別顔で言ってみる。
 石油はいつか必ず無くなるんです。こればっかりはしょうがない。深沢七郎が言った「子供を二人以上つくる人間は悪だ」という、人類滅亡論に通じるものを感じました。
 結局のところ、自分や自分の子孫の事しか頭にないのです。懸念の対象は決して、地球じゃねえ。
 
 この週休二日の御時世に、ぼくは月休三日です。帰って寝るだけもつらいでしょうけど、月に三日しか目覚まし時計をオフにできないのもつらいです。休日が欲しいんじゃない、休日の前日が欲しいんだ! とレイモンド・チャンドラーが言っていたとおりです。言ってないけど。
 やはり『翌日仕事でも呑もう会』に賛同してくれる人はおらず、辛うじて一人つかまえました。彼とはもう二十年来の仲で、共通点はギタリストである事と、低収入である事です。
 さんきうミュージック。音楽こそ最高のリサイクル製品だ。