事実を書くことの辛さったらないね

 
 創作ってラクだな、ですこです。
 
 2ちゃんねるでは『福岡県北九州市で、保育園の車に放置されて2歳の男の子が熱中症の症状で死亡した事故』のスレがやたらと伸びていて、覗いてみると予想とは反対の方に荒れていて驚いた。叩かれるべきは保育園側のはずなのに、親が叩かれている。理由は、親がDQNだから。おいおい、子供の死に親は関係ないだろー、との正論はあそこでは通じない。こうなると、いずれ2ちゃんねるも政府のプロパガンダに利用されてくるだろう。というか、既に利用されているらしいけど。やっぱいかんね、群れるのは。独りで酒を呑んであれこれこじつけるのが一番健全だよ(そうか?)。
 DQNじゃないけど、近所にやかましい親子がいる。見た限りおそらく親子ではなく、祖母と孫だろうと思われる。ばあちゃんの方は年の頃なら七十、孫は五歳くらいだ。遺児なのかどうか知る由もないが、常にばあちゃんと二人でいるので、たぶん二人暮らしなんだろう。
 外でひどい訛りの怒号が聞こえてくると、窓から覗けば必ずその二人がいる。ばあちゃんは自転車を貨物車代わりに常に押しており、孫はそのうしろを自転車でついてゆく。車道を蛇行している孫を注意しているんだろうけど、ぼくにはなにを言っているのかさっぱり聞き取れない。それでも北海道の訛りだということは理解できる。
 大抵の場合、田舎から出てきても訛りはいずれ薄まってくる。ごつごつした大きな石は、河を下りながら他の石とぶつかって、そのうち丸くなっていく。ばあちゃんが異様に訛っているのは、たぶん他者とコミュニケーションをとっていないからだろう。
 そしてその子供は今どき珍しく青っ洟が垂れていた。眼はぎらぎらしていて、いかにも気性が荒そうだった。なにより見窄らしくて、小汚い――これじゃまるでぼくの幼少時代じゃないか!
 
・A木
 小学校低学年の頃、A木という友達がいた。じつに頭のいい男で、じっさい頭はやたらとデカかった。両親、姉の四人家族だったと記憶している。絵に描いたような貧乏だったA木家は、家具や佇まい、その全てに戦後の残り香が漂っていた。
 A木の家へ遊びに行った時には、ミニチュアのルーレットで遊ぶのが常だった。A木には特殊能力があって、赤か黒かを100%当てることができた。そしてそれが当たる度に、我々は五分間ほど、狂ったように笑い転げて畳の部屋をのた打ち回った。
 すると襖がすぅと開いて、薄幸な前髪を垂らしたA木の母がおやつを持ってくる。皿に載ったそれは、初めて見る代物だった。ぶよぶよとしていて、半透明の白いスライムのようにグロテスクなものだった。「出されたものは有り難く頂くべし」と教育は受けていたぼくも、口にするのは躊躇われた。ちらりとA木を見ると、うまそうに喰っているので口に運んでみると、これがうまかった。
 帰宅して、母に“白いスライム”のことを告げると、母は「アラ! 今どきそんなの! 戦後のおやつだわよ! キャハハハハ!」と笑い転げた。それを見たぼくは、A木をバカにされたような気になって、母が嫌いになった。
 ウチも貧乏だったが、A木家は輪をかけて貧しかった。どうやら貧乏人は下を見ることで生きる糧を得るらしい、というのが当時のぼくの実感だった。
 A木はその後、忽然と姿を消した。たぶん夜逃げだろう。堅実で聡明だったA木は、今頃はどこかのマイホームでまったりと暮らしているに違いない。
 
・S木さん
 上階に住んでいたS木さんには、ぼくよりも三つ年下の息子がいた。自然と仲良くなって、よくウチに遊びに来た。ぼくには歳の離れた姉兄がいたので、おやつには事欠かない。大人が食べる辛いお菓子が自慢で、それを咽せ返りながら食べきることで、年上の威厳を示していた。
 初めてS木の家へ遊びに行った時は、驚いた。2DKは異様に殺風景で、流し台が自棄に汚くて、フライパンンにこびり付いたスクランブルエッグの破片が放つ腐敗臭が部屋中に充満していた。そのくせテレビのリモコンには御丁寧にサランラップが巻かれている。
 何もないS木の部屋で、途方に暮れた。彼の異様な寡黙さは、今まで家に呼んでくれなかった理由を顕していた。話し掛けるとはにかんだので、少し安心した。
 すると襖がすぅと開いて、お母さんがおやつを運んできた。
 さすがに驚いた。
 容器のままの味噌と、曲がり胡瓜が丸ごと一本だった。
 ぼくは胡瓜を握り締めたまま思案した――「酒の肴か」と。それも、呑んだくれの。
 母には、このことは黙っておいた。
 
 
 なんだか、そんな昔のことを想い出してしまった。
 S木家の話は興味深い続きがあるし、本当は他のやつらのことも書くつもりだったが、どっと疲れてしまった。きつい。
 
 二〇〇七年のDQNだと? 嗤わせるんじゃねえ。