ハーフへの畏敬

 
 ジョン・リー・フッカー亜細亜顔、ですこです。ちなみにライトニン・ホプキンスは“菅井きん顔”です。
 
 毎週日曜、欠かさずお見舞いへ行くようになって7ヶ月が経ちました。その7割は二日酔いだったし、正直めんどくせえなぁと思う日もありました。けれど、行かなくて済むようになったらなったで、それはそれで淋しいものです。まったく身勝手と申しますか、ないものねだりのアイウォンチューなのです。
 当然母は北海道に残ることを望みましたし、それは不可能なことではなかったのですが、家族で協議した結果、千葉へ住むのが最善だろうと結論しました。ぼくにもっと甲斐性があれば、バリアフリーのマンションでも買って同居することもできたのですが、いまのぼくにそんな経済力はとてもないのです。こんなとき、自分が情けなくて涙が出てきます。
 因果なもので、かつては同市内に住みつつも、実家に帰るのは年に数回だったのですが、倒れてからは毎週顔を合わせるようになったのです。なぜそうなったのかといえば、死を意識しはじめたからです。片麻痺の比喩ではなく、ぼくは母を半分死んでいると思っています。悲観的な意味ではなく、倒れた母を発見したとき、死んでいると思ったのです。彼女は非常に幸運なのです。いま想えばですが。
 裁縫が好きな母の目標は、千葉で個人向けのリフォームショップを営むことらしいです。電動ミシンを使えば今の状態でも可能なのですが、母は足踏みミシンにこだわります。「電動じゃ厚いものが縫えない」と頑なですが、単にミシンの進化を知らないだけでしょう。
 三兄弟で会ったときも、全員が一致したのは「あの足踏みミシンだけは絶対に捨てるまい」ということでした。我々の原風景では、あのミシンは母と一体化していたのです。
 ぼくが音楽によって様々な人と出会ったように、母もまた裁縫によって出会い、これからも出会うつもりのようです。行為というのは、人と出会うためにするものなのかもしれません。
 そんな手持ちぶさたの日曜の夕方、不意に散歩でもしようと思いつきました。ダイエットも兼ねた散歩ですが、ただ歩くだけではつまらないのでデジカメをぶら下げて行こうと思い立ちました。
 ギターが高額で売れたお金で最初に買ったのは、カメラのレンズです。非常に明るいレンズで、夜の巷もフラッシュ無しの手持ちで撮影できます。次に買ったのは、スニーカーです。歩きやすくて、できれば雪道でも歩ける靴が欲しかったのです。
 これらは本能の赴くままに買ったのですが(なまじ小金があるので一切悩まない)、いま想えば、無意識下では完全に夜の散歩を想定されています。
 着替えて首にカメラをぶら下げ、靴を履いて玄関のドアを開けると、吃驚するほどの雪が積もっていました。我が家は出窓なのですが、手前にはオーディオセットが鎮座しており、外を覗くためにはそれらをかいくぐらなければならず、寝室は文字通り寝るための部屋なので、終日遮光カーテンは閉め切っています。さらに窓の内側は、断熱のためにエアキャップシートを貼っているのです。つまりぼくは、あまり外を見ません。
 吹雪の中でカメラが壊れるのはいやだし、これほどの積雪でこんなスニーカーで散歩するなどとは、ほとんど苦行僧の沙汰なので、デブ思考で潔く諦めました。
 玄関を閉めると新聞受けにチラシが入っているのがわかりました。赤の配色がやたらと多いそれが宅配ピザのチラシであることは判別できました。手にとって見ると、いつも閑古鳥が鳴いている、すぐ近所のドミノピザでした。
 ちょうどうんこがしたくなったので(散歩どうするつもりだったんだ)、メニューを読みながら便座に腰掛けていると、「閏年セール!」との紙片がホチキスで留められているのを見つけました。なんとそこには「ピザ全品半額!」と書かれているではないですか。アメリカン・スペシャルのMサイズが750円って、安っ!
 
 頭上で、痩せっぽちの天使が言うんです。
「待って、ですこクン。いまやピザという単語はそのままデブを意味するの。キミはさっきまでウォーキングに行くつもりだったじゃない? ダメだよピザなんて」
 弾けた煙玉の後に現れた、恰幅の良い悪魔が言いました。
「おいですこ。こんな幸の薄い天使みてえになりてえのか? おれの方がよっぽど福があるじゃないか。ダブルのスーツだぜ? ワハハハ!」
「ですこクン、悪魔の言うことを聞いちゃダメよ」
「ウルセー! この、空飛ぶボウフラが!」
「天使はね、宙を浮游するために痩せてなきゃならないのよ」
「そーれ! フーッ!」
 悪魔が強く息を吹きかけると、天使はくるくる廻って天井に頭をぶつけました。
 ぼくは思わず「鰹節みたいですね」と言ってしまいました。すると天使が「ザッツライト」と人差し指を立てて、得意気な様子で続けました。
「いい、ですこクン? 目の前にある鰹節に手を付けないことに味があるの。あなたになら、わかるでしょ?」
 悪魔が指を鳴らすと、ねこまんまが現れました。それを下品に掻き込みながら彼は言いました。
「うまい。今どきはこういうメシがうまい。瞬時に追い鰹だ。名前を『てんしまんま』に変えようか? ワハハハ!」
 悪魔の噴飯がぼくの頬に付着しました。ぼくは思わずその米粒を口に運んでしまいました。
 呆れた様子の天使が言いました。
「わかったよ、ですこクン。好きにすればいい。ただし、責任は自分で取ってよね」
 そう言い残して換気口に吸い込まれていきました。
 スーツの袖で口を拭きながら、悪魔は言いました。
「天使の言う通り! ケツを拭くのを忘れるな! じゃーな!」
 自分でタンクのレバーを捻ってから、悪魔は便器に飛び込みました。
 
 彼らのせいですっかり便意が失せてしまったぼくは、部屋に戻って母に電話を掛けました。彼女は、半年で20kgもの減量に成功したのです。
「はい、もしもし」
「世界のですこですが」
「ああ、あんたかい。で、なに?」
「ピザが半額なんだけど、どうしたらいかな?」
「プッ・ツー・ツー・ツー」