犯罪マニアの手記

 
 しゅきしゅきビーフン大しゅき週に二回は作ります、ことケンミンですこです。しゅきー! キーン! んちゃだっちゃ!(なんか混じってる)
 

 杉浦法相が「死刑の執行命令に署名しない」と明言した事は実に画期的発言であります。
 昔に比べると執行の数も減っていますから、時代の流れと言うべきか。ちなみに1979〜1984年までは毎年それぞれ一人、85年は三人、86年は二人、87年は二人。ゼロという年は戦後だと64年と68年。最も多かった年は年間三十九人が処刑された57年と60年です。1945年から85年までに処刑された死刑囚はおよそ六百人です。資料が古くて申し訳ない。
 杉浦法相と対極をなす人物と言ってもよい、67年当時の法相だった田中伊三次は新聞記者に向かって「ただいまわたくし、二十三人の執行命令にサインしました」と宣った既知外であります。まぁそういう時代だったのかしらね。
 死刑制度については賛否両論御座いますが、わたしは死刑反対派であります。
 理由は色々とありますが、まずは報復論が成り立たない、という事です。殴られたら殴り返す、右腕を折られたら同じく右腕を折り返す、強姦されたら強姦し返すetc、それぞれどれくらいの力で、どの間接が折れたのか、どの穴に入れられたのか(だって肛門かも知れませんよ)、と報復の報復、堂々巡りにキリがありません。「家族を殺した人間を遺族が殺せばいい」とは正論かも知れません。しかし、法廷でもし報復殺人を犯したのなら手を下したその遺族は殺人者として捕らえられてしまいます。つまり、死刑制度とは国家による報復権利の剥奪に他なりません。これは別に殺人に限った事ではありませんし、しかも報復だと罪が重くなるケースだってあるのですから、報復論はやっぱり成り立ちません。
 もう一つは死刑制度に犯罪抑止効果はない、という事です。単純殺人ならば(強盗や放火ではない場合)、尊属殺人=重罪という方程式が破綻したいま、幼児を殺さなければ三人殺しても死刑にはなれないでしょう。
「ワッハッハ! そうか、四人殺しても一回死ぬだけでいいんだな? ワーッハッハ!」
 などと考える悪党はほぼ皆無でして、大半の殺人者は衝動的に人を殺めてしまう。裁判で重要視される「殺意の有無」がソレをよく表していますし、「こいつを殺したら懲役何年だろう?」と考えながら犯行する人間はほとんどいません。死刑のみならず刑罰を重くしても犯罪の抑止には繋がらないと云う事です。これは世界中の研究者によって明らかにされています。
 もう一つは、死刑制度を廃止して終身刑を適用すべし、という事です。死ぬまで懲役を科してわずかな賃金でも遺族へ渡し、長い時間を掛けて反省や悔恨の芽生えを育む――文字通り一生をもって、一瞬の罪を償うと云う制度です。刑務所には文盲がザラに居るようです。文盲の人間の首に輪を掛けて吊すなんて、これこそ非人道的な行為ではないか。もし殺すのならばせめて教育をして心が育ってからにして欲しい。性善説性悪説なんかどうでもいい。教育、なんて漢字で書くと大層だが、所詮は知ってる事を伝える行為に過ぎない。だがそれすらも受けていない人がいる事も事実であります。
 
 さて、長々と似つかわしくないヘヴィな内容を書いてしまいましたが、少しでも死刑制度に興味がある人は本を漁ってみて下さい。わたしが薦めるのは大塚公子氏の著作と、故・遠藤誠氏の著作です。死刑制度の詳細については、政府がシャットアウトしてますのでテレビじゃ絶対にやりませんから、自分で調べるしか術はないです。
 そうそう、遠藤誠翁と平沢貞通の最期の風景は、無念だがとても美しい光景だった。それはもう、言葉では言い表せません。
 
 すいません、うんこしてきます。うんこ吊してきます。