ゲージツ日記

 
 マウスのスクロールのところの滑り止めのギザギザのところが垢で埋まっていることをいま気づいたところこと、所ですこです。
 二日ぶりに呑むと、たかが発泡酒でもポーッと効くのです。「今日も呑むまい」と心に誓ったのではありますが、明日は資源ごみの日であり早朝歯科医ですので、いまのうちに空き缶をゴミステーションへ捨てておこう、と思い、袋を縛っている時にぷんと匂った酒の香りですっかりスイッチが入ってしまい、その足でコンビニで酒を買うというこのアル中っぷり。別にかまうこたぁねぇ。
 最近また桂枝雀の「代書屋」をひっきりなしに見ています。何度見ても、聞いても、“イイ”んです。正直、ガハハハ! とは笑えませんが、イイんです。
 最初に枝雀を知ったのは音声のみでした。音声だけでも充分に面白かったんですが、DVDを見て驚喜しました。聴覚で想像していたソレよりも、ずっとアグレッシヴだったんです。
 こういった「音は知っていたが初めて視覚で捉えた時の驚喜」は優れた音楽DVDでも同じで、ステージ上では例えばビートルズもCANもジミヘンもDixie ChicksLittle FeatCaptain BeefheartFrank Zappaも、Big Mama ThorntonもBuddy GuyもBukka WhiteもSon HouseもHound Dog TaylorもKoko TaylorもEarl HookerもMuddy Waters…もういい加減割愛しよう。
 いえ実を申しますと、キーワードに引っかけよう、というイヤラシイさを全面に押しだそうとしましたが、途中で面倒臭くなったんです。
 以上はなにも目と耳に限った話ではなく、例えば小説の映画化など「視覚 VS 視覚」のケースでも、誰もが驚喜や失望を(後者が圧倒的に多いが)感じた事が御座いましょう。
 落語とは逆に、視覚で抱いていた期待が聴覚で裏切られた場合に感じる最も普遍的な違和感は「漫画のアニメ化」による声優となりましょう。国民的アニメにおける大山のぶ代のハマリ具合は、奇跡と云ってもよいでしょう。
 このように我々の器官及び感覚は曖昧なのであります。解釈は千差万別と申しますが、決定が千差万別なのではなく、曖昧な優柔不断がフワフワと千差万別なのであります。
 想像力は曖昧なまま、だからこそ無限なのです。
 そこに『形』を突きつけられると、曖昧なクセに「そうじゃねぇだろ!」とか「そっちじゃないよバッキャロウ!」と宣い、挙げ句の果てには「才能がねぇ!」「やめちまえ!」などと罵る始末であります。
 曖昧な奴らに叱咤される事ほどムカツクことは御座いませんが、それでもヤルのが所謂表現者、アーティストなのでしょう。
 なじられ、殴られ、張っ倒されても自分の唄を止めない、売れる事とはほど遠い行為をバカみたいに継続している者こそが、真の普遍性を獲得できるのではないか。
 異端が提示した圧倒的な普遍性、これを芸術と呼ぶ、とわたしは思います。
 だがソレは前衛の為の前衛ではない。キチガイでもジャンキーでもない。
 じゃあ何か?
 神? いや違う。
 ゴッホの絵は無神論の匂いがプンプンする。ゲージツの匂いが充満している。

 とっても好い匂い、戦争でも平和でもない、赤ちゃんみたいな匂い。