必死で隠していたモノを発見されたのなら、消すしかない

 
 乳首の位置がだんだんと下がってきている、フラフープですこです。年だなァ。
 
 今度は京都で12歳の女子が、23歳の塾講師によって殺害された。
 犯人はあらかじめハンマーと包丁を用意していたらしいが、単に脅しで使うつもりだったのか、本当に殺害するつもりで準備していたのかは、まだ判らない。
 どちらにしても、当局からは計画的犯行と見られる事は必至であり、なにより、一回りも年下の女子相手に凶器でもって云々などとは、犯人の小心さをよく顕している。同時に、自分の手には負えない相手だったという事も…。
 
 12歳の女子ともなると生意気盛りで、同年代の男子を軽視し、大人を言い負かす事に喜びを覚える時期である。
「あたしだって大人の男を困らす事ができる」という自覚で、自信を持ち、オンナへと成長していく。
 
 犯人は、自らのプライベートな話をしたりするような気さくな人柄で、生徒にも人気があったようだ。
 だが、一見気さくな人間には必ず裏がある。表に惹かれるのは子供だけであり、紙芝居師がどうやって生計をたてているのかを疑問視し、コッソリと師の後を追い、有り得ないくらいのボロ家へ帰る師を電柱の陰で窃視して「なーんだ!」と、幻滅と安堵が入り交じった溜息にも似た微笑こそが、大人への第一歩である。
 勉強を教えるのが目的なのならば、気さくである必要はない。学ぶ事の喜びを教え、学ぶ事によって将来どういう風に役立つのかを伝え、生徒に未来のヴィジョンを見させる手助けをするだけでよい。
 教育とは、知っている事を伝える行為に過ぎない。よって、課外授業である塾講師の『公立小学校の教師化』は、本末転倒である。
 この学歴社会に於いて、勉強だけを教えるのはもはや学校となってしまい、勤勉がもたらす“利益”が、将来自らの習得能力の高さを就職の際に企業に対して示すひとつの指針でしかない事を、一体だれが教えるのだろう?
 本来は課外授業の先生である塾講師が教えるべきだが、大学出たての冴えない塾講師にソレが出来るはずもない。
 評判を落とさずに生徒をまとめる為には、自嘲気味に気さくを装うしか術はなかった。
 現代の12歳にはその“奇策”は通用しないのではないか。被害者の女子はその欺瞞を見抜いてしまったのではないか。その炯眼によって、講師は生徒に丸裸にされてしまったのではないか。
 
 人は、本当の事を指摘されるとマジで怒るのである。
 
 だが12歳にはまだソレが理解できていなかったし、23歳はソレを赦す度量もなかったのである。
 己の存在意義が追いつめられて、殺っちまったんである。
 12歳の女子と、23歳の男性。わたしはこの年齢差は絶妙だと思う。庇護はしなくとも、密かに頷く同年代の塾講師も多いのではないだろうか。
 
 例えるならば――
 職を失った四十代のおっさんが、家族を喰わせる為に取り敢えず繋ぎのバイトでキャバクラ嬢送迎のワゴンを運転している時に、酔ったキャバ嬢に浴びせられた暴言にムキーッ! と憤怒し、思いっきり急ブレーキを踏んだ時
――のような怒りである。
 この場合、暴走を回避して“ブレーキを掛かけた”おっさんは、偉いのである。
 
 ちなみに、加害者の塾講師には前科がある。強盗致傷だ。
 強盗と云っても押し入って云々ではなく、置き引きをした際に駆けつけた警備員に体当たりして軽症を負わせた、ただそれだけでる。
 だが、それだけでも「強盗致傷」と云うヘビーな名前を付けられるのが、日本の法律である。
 
 思えば彼は不運である。
 
 同大卒のエリートである彼が教えられる事は、人生における不条理だけなのかも知れない。