シャイなDQNと和の真理

 
 昨日つくったビーフシチューにじゃがいもを入れすぎて、そのじゃがいもがシチューを吸いまくったので、水を足したら無味だったですこです。す、す、す、捨てようかな(山下清風に)。
 本日、仕事納めでした。疲れ果てました。通常よりも一日遅かったので、昨日はお休みでした。あまり意味のない休みでしたけれど。今年は寸志も御座いませんでした。誰かわたしにボーナスを下さいませんか。
 ボーナスという制度は、日本固有のシステムなのでしょうか? 毎月の給料から天引きされているのは明らかであり、そのクセご褒美と称して年二回与える、というこの欺瞞はいかにも日本的です。
 欧州にも似たシステムはあるかも知れないが、その場合、業績が伸びた時に即座に与える“本当のご褒美”なのではないだろうか。
 そもそも、「賞与二ヶ月分」とは、基本給×二ヶ月分のことでありますから、総支給の四割が手当だった場合(往々にしてある)、6割×二ヶ月分しか支給されないこの打算も、それに喜ぶ労働者も、いかにも日本的であります。
 
「宵越しの金は持たねぇ」と云った、江戸時代の刹那的で漢っぽい台詞の所以は、実は元締めが自分の都合に合わせて流布した思想に他なりません。
 当時の江戸っ子は総日雇い状態で、ヘタに貯金があると明日の仕事をすっぽかすので、先の台詞は賢い資本家が流布したのです。さらに元締めは、慰安と称して賭博場を開き、賃金の搾取にも成功したのであります。
 スッカラカンになって夜風に当たっている労働者の最高の言い訳として「宵越しの金は持たねェ」という美学が生まれたのです。そう、ただのバカです。
 そうなるとどうしたってお金は足りなくなる。そこで金貸し業の台頭ですよ。
 現在、財閥と呼ばれている企業のいくつかは、江戸時代に金貸し業として発足した企業も少なくない。そりゃあ儲かりますよ、何も造らなくていいんですから。
 そう考えますと、平日昼間のパチンコ場の混みようは、江戸時代とさほど変わっていない、と言わざるを得ません。
 
 大体、パチンコはギャンブルではなく“遊技場”です。
 以前、パチンコジャンキーだった主婦が連日大敗を喫し、逆恨みでパチンコ店のトイレで首吊り自殺をしました。普段なら強大な資本力を活かして事件を隠蔽するところですが、その時は外部に漏れてしまいました。
 店長はこう言いました――
「パチンコはギャンブルではありません! お金を遣って遊ぶ“遊技場なんです!”」
――と。
 思わせぶりないびつな旗をバックに、本音を吐いた。
 パチンコは、遊技場なんですね。
 
 最もギャンブル然としている競馬の場合、1000円の馬券は700円の価値しかありません。買った時点で既に3割負けているんです。
 1.3倍でチャラですが、出向くまでの交通費や競馬新聞代を加味すると、勝ち逃げをする事は案外難しいのです。四季報買ってレースを録画してスロー再生で観たりと、時間や脳味噌を注ぎ込む本物のギャンブラーじゃないと、ギャンブルは勝てません。そうでもしないと最初っから欠けている3割を取り戻せるはずもありません。
 
 麻雀は、めちゃくちゃ面白い。実はかなり好きです。相当に深い。
「亡国の遊技」と言われるだけの魅力は充分にたたえていると思います。対人でやらなければならないところも、恐ろしくも魅力的であり、勝った時のカタルシスもひとしおです。
 
 ガラス相手のパチンコと、ATMの消費者金融が席巻している現在の日本人は、江戸時代よりも退化して、湖面を見ている原始人のようです。