今日は、世間では色々な事があったようだ。箇条書きから始めよう。
 
 阪神大震災から11年経ったらしい。
 当時わたしはデスクワークのクソ安月給で、その惨事は仕事中のテレビで目撃した。NHKの常時設置カメラが捕らえた、社内に寝泊まりしている人間が簡易ベッドらしき所から一気に滑り落ちた映像は、いまでも憶えている。
 あれほどの震災は経験した事がないので、その衝撃や後遺症は解らないが、築き上げたモノが一瞬にして崩壊する、という無念さと諦念は、わたしの幼稚な想像力でも理解しているつもりだ。当然、当事者から言わせれば「お前なんかなにもわかっちゃいない!」と言われることだろう。
 以前、震度4の地震がきて以降、わたしは揺れに敏感になっている。そのほとんどが飲酒による酩酊の仕業でも、わたしは天井から吊された電器の傘を見てしまう。それが揺れているのか、脳が揺れているのかはもはや判らないが、地震を意識していることは確かだ。
 おれでもそうなのに、あの震災を体験した人たちのトラウマたるや想像を絶するに違いない。想像を絶する、とは理解不能を意味する。
 わたしは解らない。報道では実感できない。
 かといって被災地まで赴いて目の当たりにするガッツもない。正直なところ、対岸の火事だった。わたしは死亡者よりも生存者に興味があった。
「不可解な災害によってゼロになった人間が、もう一度盛り返せるのだろうか?」、そういう好奇心があった。奮起した人もいれば、消沈している人もいるだろう。11年経って街はもと以上に戻った。わたしは単純に「凄ぇ!」と思ってしまう。虫みたいにたくましい。たくましい虫だけじゃなくとも、街は戻ってしまう。
 たぶん、虫は人間みたいに悩まない。全員参加しなくとも再生できてしまうのは、奮起の元手は他者の苦悩かも、とすら思ってしまう。美しいとは言い難いが、よく出来ている。
 考えてみれば、人類はずっとそうして補ってきたのかも知れない。
 パワーは、均せばずっと一定のような気がする。誰かが凹むことで誰かが凸する、そういったパワーが、未来永劫を創っているのではないか。
 わたしは、なんとなくそう思う。
 その書記官が詩人である、とも。命はちっぽけである、とも。だから価値がある、とも。
 
 小嶋社長の証人喚問は、ちょっとだけ観た。
 証人喚問はいつもそうだが、よってたかって、である。権力の巨きな指でもって小さな証人の襟首をつまみ上げ、小ボスの群れに晒し出すという、公的な電波も駆使して大衆に晒す凄惨なイジメである。小嶋に同情はしないが、絵図は嫌悪する。
 イジメは絶対になくならない、と強く思う。あの絵図が出来上がるまでのデッサンを想像しても、である。
 闇鍋にうんこを入れて、明かりを点けてからソレをつつくようなものだ。ギャラリーはドリフ笑い。
 
 ライブドア強制捜査だとか。
 まだ結果は出ていないのに、こんなにも関心が集まるのは、やっぱり堀江は国民に嫌われているのだろう。
 わたしも好きではない。なにがって、顔が不味い。ほんっと、顔って出ますね。脂ぎって、阿斗みてーになってるし。
 それにしても強制捜査って、むごい。有無を言わさず手当たり次第奪っていく訳ですから、知らない社員にとってはあれよあれよと、戦禍の民家みたいなモンです。権力って怖いですネ!
 チンタラとダンボールを運んでいる検察の人間を見ていつも思うのは「民間に委託しろ」である。いやむしろ夜逃げ屋本舗に委託せぇ! 検察は捜査は早いが、荷出しがトロい! 郵政よかそっちが先じゃい!
 そうなるとまた袖の下ってか?
 
「不正が不正によって裁かれるよりは、不正があった方がまだマシだ」
 と云ったのは、かのゲーテだったか。
 
 昔の人は偉い、というよりも、昔っから変わってねぇだけよ! hahaha!