無駄に長くなったとりとめのない日記

 
 エリック・モラレスマニー・パッキャオにボコンボコンにやられたらしい、速報ですこです。近年稀にみるぼこられ具合だったとか。あのモラレスが…くーっ! 観たかったー!
 
 昨日は休みで、休みの日はだいたい昼過ぎまで寝腐るんですが、昨日は7:30に起きてテレビを点けて、すぐにベッドに戻りサンデーナントカの音だけを聞きながらモゾモゾしていると、なんだかぐふふふと、もの凄く幸せな気持ちになって、寝入りばな特有の得も言われぬ快感と、テレビが発する醜聞とが抜群の相性で混ざり合い、ヘロインってこんな風に無為の悦びを与えてくれるんだろうなー、なんて考えていました。
 
 ホリエモンが逮捕された瞬間から、キャスターが「堀江しゃ…堀江容疑者が」と何度も咬むところが可笑しくもしたたかであります。次長課長の河本が演ずる「じゅんちゃん」を連想させるのでありました。
 
 忘年会ではしゃぎまくるライブドア社員の映像が流れていて、アングルは隠し撮りっぽくて、その画質の悪さがなんとも不快なリアリティを醸し出すから映像って面白い。
 盗撮ビデオも画質が劣悪だからリアリティがあるのであって、あれがハイビジョンだと逆に冷めてしまう。
 逆に、大昔の白黒の銃殺映像をよりも近年のRGB首切り動画の方がリアルに感じるし、80年代のエロビデオよりも最近のエロDVDの方が圧倒的に萌える。これは画質と云うよりも、時代が関係してるのだろう。前者は軍服の形が、後者は髪型と下腹部の形が違う。
 
 映像と云えば映画ですが、わたしは2時間もじっとしている事が困難なのであまり映画を観ないのですが、スタンリー・キューブリックは非常に好きで、中でも「時計じかけのオレンジ」と「フルメタル・ジャケット」が好きで、内容よりもその映像美に惹かれるのです。時代を超えた美しさを感じるのでありました。
 
 給食を食べる時に「いただきます」と言わせるのはおかしい、との議論が巻き起こっているようだ。言い分は「給食費を払っているのだから言わせる必要ない」という事らしい。
 その言い分は気にくわないが、わたしは別に言わなくてもいいと思う。それはわたしがそういう教育をまったく受けていないからそう思えるのだろう。
 わたしの家では「いただきます・ごちそうさま」はもちろん、「いってきます・おかえりなさい」などとは、恐らく一度も言ったことがない。言わないのが普通だったし、もし言ったとしたら家族全員噴飯したはずだし、わたしの額に手の平を当てていたことだろう。
 だから親戚の家でなど食事をする時はよく叱られたものだ。「食べる時は肘をつくんじゃない」と叱られたが、全くピンと来なかった。両肘を浮かせたまま、全盛期の荻野目洋子のように肘を張って食べていた昔の自分を思い返すと、笑ってしまう。
 ただ、食事のマナーは悪かったが、食べ終えた食器は自分で下げる習慣だった。親戚も友達も食べ終えた食器は、しばらく経ってからお母さんが下げていた。わたしは食べ終わってすぐにうるかした方が洗い易いだろうと思っていたので、食べ終えたらすぐにシンクで水に浸していた。「あら偉いわね」という褒め言葉も、「ごちそうさま」という習慣も、わたしにはまったく理解できなかった。
 もちろん今はちゃんとお金を払っていたって「いただきます・ごちそうさま」は言うし、不味くとも「美味しかったです」とちゃんと嘘もつく。
「いただきます」とは社交辞令であり、もし本当に「いただきます」という気持ちをあえてひねり出すのならば、作った人にではなく、食べ物そのものに対してならば湧きあがる。作り手よりも、肉片そのもの、または生体から肉片まで加工した屠場で働く人たちの方がよっぽど偉いと思える。
 つまり、命は命を食べる事で生命を維持できる訳だから、感謝をすべき対象はこの宇宙であり、またはわたしたちの代わりに動物を食べ物に変換してくれた人たちではないか。
 ビャンビャン飛び跳ねている鶏の首をチョンパして血抜きをして熱湯で羽を毟り解体する事にくらべたら、片栗粉をまぶして油で揚げる行為なんざ屁みたいなものだ。
「わたしの代わりに血を浴びていただいて申し訳ない」
 こういう話になるといつもそう思ってしまう。だってイヤですよ、動物を殺すのは。
 
 このグダラナイ「いただきます論争」が勃発した所以は、過剰な利便や過剰な接客などの「安価な満足」がもたらした精神的貧しさからだろう。元旦のコンビニ店員は死人のような顔だったぜ。
 幸福になるために文明は進歩したが、過剰になると今度は皮肉にもそれに敵対する要素があらわれてくる。フロイト言うところの「文化の不安」だろうか。
 わたしが高校生の時は携帯電話はなかった。だから時間を決めて、公衆電話から彼女の家へ電話を掛けていた。「もしや親が出るのでは?」と、あのドキドキ感は今では味わえないのだろう。メールで「セックスしよ(~▽~)」で終いである。便利=幸福とは必ずしもならないし、時に逆行するのではないか。
 そういえば今日はその彼女の誕生日だったっけ…フッ。123で憶え易いだけさ…フッ。
 
 感謝するのは結構だが、その対象はハッキリとさせるべきだ。
 わたしは風俗に行ったときなどはキチンと「おねがいします・ありがとうございました」と言う。精子にウインクしながら「チャオ」とも言う。
 
 等価交換が重要だ。その前に何が等価なのかを知らねばならないが。