表明のそのあとに

 
 怒るとコメカミに青筋が浮かぶ、劇画野郎ですこです。
 
 今日は仕事でカチンときたあとにプチッときまして、そのままテクテク勝手に帰ってきました。元来温厚なわたしが怒るなんて、相当なことです。いやまてよ、おれはひょっとしたら温厚な人間ではないのかも知れない。この32年間、自分は温厚だと言い聞かしてきたが、ひょっとしたら短腹なのかもしれない。
 まぁでもあるじゃないですか、積もり積もったモノってさ。あー仕事やめたい。でも辞めると次の仕事がなァ…と、もう数年の間このリフレインを繰り返しています。そろそろ覚悟を決める時期かのぅ…のう?(誰に訊いてんだよ)
 とりあえず散財はせずにお金を貯めておくとしましょう。わたくしこう見えても、もう結構貯まっているんです。三ヶ月は無職でも生きられます。さらにギターやらオーディオやパソコンパーツなどのモノが沢山ありますので、それらを売り捌けば半年は生きられます。
 人生はサバイバルじゃのぅ…のう?(誰にry)
 
 
 
 いざ辞めるとなると、なかなか言い出せないもどかしさは皆さんも経験されているでしょう――。
 
 
 昼時、同僚たちが外で食事に出る際に上司をそっと呼び止める。
 
「ぶ、部長…」
「なんだね?」
「じつは…」
「なんだ。はっきり言いたまえ」
「あのう…」
「おれは腹が減っているんだ! 早く言え!」
「そのう…」
「あそこのランチは限定20食なんだ! 急がねば…おまえ、まさか…?」
「…はい」
「財布を忘れたんだな? 貸してやる! 急ごう!」
 
 韋駄天で走りましたが限定のランチはすでに品切れでありました。
 仕方なくランチと同額の玉子丼セットを頼みました。
 
「おまえのせいだぞ!」
「すいません」
「ほら、隣を見ろ。今日のランチはおれが大好きな鶏肉とナッツのピリ辛炒めじゃないか! オーマイガッ!」
「申し訳ございません。ところで部長、話というのは…」
「なんだ? 千円じゃ足らんのか? ホレ、もう千円貸してやる」
「…いえ、そうじゃなく」
「今日は残業だぞ。沢山食べて精をつけろ。とろみのあるものを食え」
「は、はい」
 早食いの部長は万札を置いて一足先に店を出ました。
 部下は肘をついたまま箸で山芋を伸ばしたりしています。
 
 午後の職務はいつもよりもうんと長く感じられました。21時を過ぎた頃、同僚たちは退社の支度を始めます。いつも最後に帰る部長と二人っきりになるチャンスです。減灯された蛍光灯の明かりは、絶好のシチュエーションでした。
 
「部長!」
 部下は普段より大きめの声で言いました。
「な、なんだね。突然大声を出して」
「おれ、じつは…」
「フッ…いつも一番先に帰るお前が居残っているのはオカシイと思っていたよ」
 部長は苦笑しながら言いました。
「おれ…」
「もうなにも言うな。わかってるさ」
「…」
「おれが何年この会社にいると思ってる? よくある話だ」
「…すいません」
「ホレ」
 部長は千円札を差し出しました。
「帰りの交通費がないんだろ?」
 部下はさすがに苛立ちました。
「部長! 違うんです! そうじゃないんです!」
 部下は語気を強めて言いました。

「お前はまったく強引な男だな…」
「すいません…突然こんなこと…」
「帰りに焼き鳥をオゴれってか」
「ち、違います! そうじゃなく…」
「もうなにも言うな。今夜はオゴってやるよ。そうと決まればさっさと切り上げろ!」
「…」
 
 鳥富士に着いた部長は、昼間のカタキのように鳥精肉を食べています。
「旨いなー、焼き鳥ってばよ」
「…」
「いまの“てば”と手羽はかかってるんだぞ? ワーハハハ!」
「…」
「おいおい、呑めやー。明日は休みだぞ」
「…はい」
芋焼酎を呑もうかな?」
「部長…」
「なんだ。シケた面してよぅ」
「おれ、やめます!」
「やめた方がいい」
「…え!?」
「孔雀の肉ならまだしも、焼き鳥にヴァイオレット・フィズは合わん。ビールにしとけ」
「…」
 
「うし! 出るか!」
 二時間ほど呑んで店を出ました。
「終電やってっか?」
「いえ、もう終わりみたいです」
「もうお前に貸すタクシー代はない。ウチ泊まってけや」
「…」
 
 部長の家は大きなマンションでした。深夜にもかかわらず、奥さんが化粧をして向かい入れてくれた事に、部下は少し違和感を感じました。
 
「おう! 酒もってこい」
 ソファに沈んだ部長が言いました。奥さんの動きに無駄はありません。
「こいつは会社の人間だ」
「いらっしゃい」と奥さん。
「夜分遅くすいません」と部下。
 
「アレ持ってこい」と部長。
 出てきたのは、ちくわの輪切りと葱と鰹節を和えたモノだった。コレが意外と美味かった。
 他愛もない話をしながら呑みます。仕事の話は一切でてきませんでした。
 
「もう寝ようや」
「はい」
「布団ひいてあるからよ」
「いえ、わたしはソファで充分です」
「おれの部屋に布団ひいてるからよ」
「…」
「ウチは夫婦の寝室が別々なんだよ」
「はぁ」
「その方が夜ばいの愉しみがあるだろ? ワーッハハハハ!」
 
 部長の部屋は小綺麗でした。棚には沢山の本があり、特に司馬遼太郎の本が際立っていました。
「じゃあ、電気消すぞ?」
「はい」
 気まずい静寂が訪れます。
 部長は、部下と逆の方に寝返りを打ちながら
「もう一度考えてみてくれないか」
 とはっきり言いました。
 部下は、部長の背中を見ながら
「はい」
 と言いました。
 
 翌朝、二日酔いの頭痛で目が覚めると、部長が手打ち蕎麦を作っていました。
 子供たちは居間ではしゃいでいます。
 蕎麦を食べ終えて
「では部長、そろそろおいとまいたします」
 と言うと部長は手の平を差し出しました。
 部下は財布から二千円を取り出し、部長の掌の上に載せました。
 どうやら手打ち蕎麦は、タダのようです。
 
 家族全員がエレベーター前まで見送りをしてくれます。部下は照れくさくうざったかったのですが、扉が閉まって独りになると、さわやかな嫉妬を感じました。
 エントランスを渡り、表へ出ると快晴の青空がまぶしかった。自販にポカリを産ませてグビグビ飲む。
 少しだけ塩っ気を感じたが、それを飲み干すことを求めていたのかもしれない。