そこに言い訳はないようです

 
 しばらくオナニーをしないと創造的になるですこです。
 そのぶんのエネルギーがどこかよそに出る、とヒシヒシと体感しています。
 面白いなァ、この仕組みってば。出ちゃうんですね! どこかに! ピ(ry
 
 先日、ローカルテレビ局で、一人の路上生活者に焦点を当てている番組をやっていた。 わたしはその番組を見るつもりはなかったが、「ホームレス」という言葉に聞き耳を立てて画面を見てみると、一昔前のススキノでは有名な大道芸人が映っていた。
 その芸人は、週末になるとススキノ交差点の南西角にいつも居て、妙なダンスの対価として空き缶の小銭を待っていた。
 そのダンスは、なんというか、中国の雑伎団的なしなやかさと田舎臭さを醸し出しており、その容姿も相まってわたしは彼を中国人だと思っていた。
 だが、その番組での彼は生粋の道産子であった。
 
 今でもそうだが、街で友人と待ち合わせる時などに、わたしはJRAの場外馬券場をよく利用する。
 広くて、暖かくて、でっかい灰皿もあって、トイレも綺麗なので重宝している。
 当然、ホームレス風の人たちも沢山いる。わたしはその状況も気に入っていた。
 手話に包まれているような静けさを、わたしは気に入っていた。
 
 いつだったか、わたしは場外馬券場のトイレに入った。
 すると、さきほどの芸人が洗面台の鏡をみながらグリグリとメイクアップをしていた。
 わたしは「見ちゃいけないモノを見てしまった」と思い、小便は一滴も出なかった。
 メイクはやはり、雑伎団風である。実写版の三国志といった塩梅だ。
 
 友人がやってきて、繁華街へ繰り出す。
 北側の居酒屋のあと、二件目の南へ向かうと、交差点に芸人がいた。
 冴えないダンスだが、体にはバネがある。マサ斉藤をギュッと縮めたような感じ、といえば判るだろうか。肉体の潜在的ポテンシャルが高いのだ。そういう人っているでしょう? それ。
 
 わたしは彼になんの興味もなかったが、テレビで彼を見て少し嬉しかった。
「まだやってたのか!」、と。
 芸風は変化していたが、体のしなやかさはテレビを通じても相変わらずだった。
 わたしは彼を、しっかりと記憶していたのである。
 
 
 乞食、という言葉はタブーらしい。
 なぜタブーなのかと云えば「乞食は居ない」と云うのが、お上の言い分だ。
 オリンピック開催前に、テントを強制撤去するのは、そういう名分が元である。
 だが、乞食は居る。いくら呼び名を変えたところで、乞食は現に居るのだ。
 寒いので北海道にはあまり居ないが、わたしは東京に居たとき「こんなにも乞食が居るものなのか!」と驚愕した覚えがある。
 ゴーイング・トゥ・サウス、であります。南で暮らそうぜ、であります。九州に婿養子に行こうゼ、であります。
 MINAMI、なんて甘美な響きだろう。ゴキブリのサイズと、横臥の時間は比例している。
 乞食――なんてあまやかな、それでいて確実な響なんだろう。
 金銭を欲するが為に媚びへつらうのと、賞味期限(消費期限ではない)ギリギリのおにぎりを求めてバケツに頭を突っ込むのとは、それほど差異はない。
 そうしたくないから頑張る、という動機は、恐ろしく消極的な強迫観念なのではないか。
 ホームレスを目の当たりにして芽生える不透明な安堵感は、モザイク状の希望的観測とで相殺しているはずだ。
 現実を見なければならない。だがそうするためには我々の寿命は短すぎて、世界は広すぎる。
 街角の芸人を見る度に、わたしはそう思う。
 
 
 墜落してゆく彗星は、堕ちながらいっそう燃えています。