オシャレ日記

 
 一度しか着ていない白いシャツがヤニでグラデーションに、絞り染めですこです。
 
 春の兆しは北海道民にとってこのうえない歓びであります。
 雪がとけ(溶けなのか解けなのか融けなのか、忘れてしまった)、アスファルト重油が冬眠から覚め七色の鈍い光彩を放ち、猫は啼きくねり、犬は吠えうねり、人間はあえぎもだえる。キンタマが少しおっきくもなる。
 性器というのは不思議なモノで、なぜ子孫を残す為の神聖な器官があれほどまでに排泄器官と近いのか。神様のケチンボ! 女性はまだしも、男性は尿と一緒のト(ry
 
 春でなのです。ポケタポケタと柔らかなトーンポームと同時に、生命がガサゴソと蠢き始めるの季節なのです。
 春になるとなぜかオシャレをしたくなるのです。中年といえどオシャレをしたいのです。
 わたしが目指している今春のファッションは、黒い革ジャケに(ブレザータイプだがパリッとはしていなく且つシワシワでもないヤツ)、ド派手なシャツをインナーに(JKTナシでは着られないくらいの)、ジーンズ、ローテクスニーカー(ニューバランスのスーパーコンプ)、隙あらばハットとグラサン、といういでたちを考えています。変でもいいのです。わたしの中では完璧なイメージが出来上がっており、一張羅なのです。
 服というのはまこと高価なモノで、革ジャケにしたって普通に7万円とかしますし、シャツだって1万5千円とかするわけですから、それならばなんかギターグッズ欲しいなァ、と考えてしまうわたしの回路、わたしの頭の中のロケット鉛筆(ロケットを一個なくしたヤツ)。
 でも春は、大好きなソレらを押しのけてでも服を欲するのです。でも「あんま出かけないしなー」とも思いますが、服を買うと自然と出掛けたくなるんですね。街を欽ちゃん走りしたくなるのです。
 服を見せたいのか、服を着ている自分を見せたいのか、なんというかオシャレというのは原始的なんですね。
 究極的に云えば「異性を引っかけたい」もしくは「ライバルに差をつけたい」という本能の顕れですから、やはり春というのは発情の季節なのでしょう。
 ですから、常にオシャレに気を配っている人は淫乱だと云えますし、四六時中求愛しているヤリマ(ry もしくはヤリチ(ry
 ファッション雑誌が売れるというのは、そのモデルとの同化を求めている場合が多いのですが、特に女性の場合における流行の根源は実はコンプレックスの共感から始まるのが常であります。
 古代スケバンのロングスカートや、近代のルーズソックスなどは「太い足を隠す」のが始まりであり、ガングロなどはブサイクを茶化すことから始まり、いつしか国内を席巻したのです。
 以上のことは、フランスのスーパー・マルチ・クリエイターであるジャン・コクトーも「阿片」という入院日記で著しているように、昔から万国共通の人間のサガであります。
 オシャレというのは実に簡単に相手を威嚇できるのですが、そのぶん脆く、両刃の剣と云えましょう。ソレが最もよく顕れるのが男女間のセックスであることは、言うまでもありません。
 様々な価値観はありますが、わたしが思うに真のオシャレとは、誰かの真似ではなく己が着たい服を着るということ、なのではないかと思うんです。そこまでに達するには色々な経験や葛藤があると思うのです。
 それはすなわち、ロックン・ロールということなのです。オシャレでもロックはできる、それがオシャレの長所だ、とわたしは思います。
 
 春です。せめて春くらいはオシャレをしたいのです。
 春だけでいいわ。