骨日記

 
 昨夜の鶏ガラスープを一口飲んで捨ててしまった、チキン野郎ですこです。
 だって、なんか臭いんだもん。もうね、無理ですわ、ガラは。むずい。素人はもも肉で作る方が無難です。
 
 リベンジは「シチューの素を使わないホワイトシチュー」にします。ただでさえ美味しいもも肉ならば、素人でもちゃんと出汁がとれそうなのでね。ホワイトソースなんか、バターと小麦粉を混ぜるだけなので楽勝でしょう。
 確かに「〜の素」とかの化学調味料は便利且つ美味しいのですが、どうも解せない。
 ソレは別に「体に悪いから」という事ではなくて、科学に頼らなければ旨いモンが作れない自分に腹が立つのです。「ニワトリが一羽あれば結構うまいモンが作れるぜ?」という事を実感したいのです。
 よく、「クジラは捨てるところがない」と言いますが、クジラのガラの出汁を飲んだ事はありません。髭はバイオリンの弓でも(本当か?)、骨は捨てているはずです。
 鶏ガラや豚骨でスープが取れるということは、彼らこそ捨てるところがないのです。骨の髄まで煮出して、しかもそれを美味しく作るという行為は、「命は命を食べる事によってそれを維持する」という意味でも、とても大切な事だと思うんです。
 プリミティヴな料理のBGMは、スピチュアルなのです。命が尊いというのならば、鶏ガラもまた尊い
「骨まで愛して」を作詞したのは川内康範氏だったはずだ。氏はソレを遺骨収集運動の際に書いた。月光仮面も、死ね死ね団も、氏の作詞である。
 氏は、徴兵を仮病で免れた。
 だが、のちに訪れた罪悪感を掻き消すように、氏は様々なモノを創造した。
 
 鶏ガラひとつとっても、骨という物質の深さがわかる。
「肉を切らせて骨を断つ」もそうだし、火葬場の光景もそうだし、所謂「〜のコツ」というのを漢字表記すれば“骨”ですし。
 
 本当に美味しいスープは、両手で持ってすするべきだ。スプーンとかレンゲは、要らないよ。
 そうして初めて「ごちそうさま」と言えるような気がするのです。