生ちらし

 
 病み上がりですこです。お外が眩しいのねん! 健康ってスバラシイのねん!
 
 お仕事で小樽へ行く。遠いようで近い。坂と老人が多い町である。さぞかし足腰は強いのだろう。
 まだ胃は本調子じゃないので昼食は“かすり”で鍋焼きうどんを食べたかったのだが、時間がなくて叶わず、たまたま見かけた『定食』の旗がある店に入る。うどんか蕎麦、麺類がなくとも親子丼辺りなら喰えそうだ。
 あれはなんて呼ぶのかな、海沿いの町によくある「青緑の大きなガラス玉を縄で亀甲縛りに包んでいる装飾物」、それが店の外にたくさん吊されていた。
 木製の引き戸を開けて店内に入る。カウンターのみで10席ほど、昼は定食屋、夜は居酒屋といった雰囲気だった。
 店内に入ってまず感じたのが、内装とは不釣り合いな匂いだった。強烈な白粉の匂いの主は、店主の友人らしき厚化粧の初老の女性だった。
 おれが店に入ったのは11:30、まだ客は来ないと思っていたのだろう、店主と女性はカウンターで談笑しており、おれが入ったとたんにすくっと立ち上がり「いらっしゃい!」と言った。女性はおれにお茶を出した後、カウンターの端に座った。その背後の壁にメニューがあった。紙粘土みたいな顔面の女性が邪魔だった。
 刺身定食、焼き魚定食、鯖の味噌煮定食etc.、麺類はおろか肉類も、丼物すら無かった。決めあぐねているおれを、紙粘土は真正面から凝視している。
「じゃ、鯖の味噌煮」と言いかけた刹那、店主は「今日は生ちらしの日ダヨ!」と威勢良く言った。メニューをよく見ると、端の方に『金曜日は生ちらし☆』と、得意気なフォントで書いてあった。
「兄さん、生ちらしだよ!」と店主。
「いいわねぇ、生ちらし」と紙粘土。
 知らない土地の店に入った一見さんのおれは、おもわず「じゃ、それで」と言ってしまった。急性胃腸炎あがりの生ちらし…ほとんど拷問である。この店を選んだおれの右脳をおれは呪い、左脳に幻滅した。
 店主は奥へ引っ込み、紙粘土は相変わらずこっちを向いている。新聞を読む。ちゃんとホチキスで留めてあったのが意外だった。昼の来客が多い証だ。
 
「ヘイ、お待ちぃ」恵比寿顔の店主が生ちらしを持ってきた。
 おれは生ちらしが嫌いな訳ではないし、小樽で食べる生ちらしはさぞかし旨いのだろう。だがね、今のおれの体はナマモノを拒絶しているのだよ。生きるための本能がさ。
 刺身てんこ盛りの丼を見て、おれは言いたかったね――
「ご主人、この丼の中身をぜんぶフライパンにぶち込んで20分ほどアオってみませんか。焼きちらし、流行るかもヨ!」
 
 鮪、甘海老、烏賊、イクラ、ウニ、鮭、しめ鯖etc.、全快のおれならペコちゃん顔で箸を割っているところだが、見ただけでゲンナリしてしまった。そうそう、味噌椀はなめこ汁だったさ。元来おれはなめこ汁が大好きなんだ。でもね、今日は大嫌いなんだよ!
 まずは鮪をやっつける。大丈夫。次、白身。大丈夫。次、海老。ちょっと大丈夫。すると何かが出現した。ご丁寧に、ご飯と刺身の間にめかぶが敷き詰められていた。この時点でおれはもう、食い逃げを考えた。胃腸が悪いのに刺身、そのうえ海藻て。
 除けてごはん。イクラ、ちょっと臭い。ウニ、あまり良くない。しめ鯖――ここで吐き気がした。意志ではなく、自律神経が、感覚が、しめ鯖を拒絶した。おれはここ何年も嘔吐をしていない。最後に吐いたのは自宅の便所だ。そのおれが定食屋で吐瀉することは、おれが許さん! 熱いお茶をごくごく流し込んで、ことなきを得る。
 もうおれは、誤って異物を飲み込んだ小型犬のように背骨を曲げていた。紙粘土は肘をついておれを見ていた。
 メニューをもう一度見る、『生ちらし700円』。財布の中身を思い浮かべた。おれの財布の小銭側は二つに分かれていて、10円以上とそれ以下に分けてある。銅の他に、たくさん銀色があったのを記憶していた。大きな銀貨もあったはずだ。
 丼をがっつり残したまま、「ごちそうさん!」とわざと大きな声で言ってみる。
「へーい」と店主は出てきた。おれはすかさず五百円玉と百円玉2枚を手渡して、逃げるように店を出た。
 もし千円札しかなかったのなら、釣りを受け取るまでの間、おれはどういう顔をしていたのだろう。悪い店じゃなかったさ。悪いのはおれさ。
 
 店を出てすぐにウプッと吐き気を催して、ひざまづいてしまった。
 だがそこは小樽、坂のお陰でおれは平静を保てたって訳さ。