不動の樹

 
 どんくさくはないけれど、いかくさいですこです。
 
 先日、母とジンギスカンを食べた時に
「D樹くんのお母さんもお見舞いに来たのよ」と言ったあと、
「D樹くんがあんたに会いたいってさ」と言ったので驚いた。彼はおれに会いたくはないだろうと思っていたからだ。
 
 D樹というのは幼馴染みの男で、四歳から小中高まで腐れ縁の仲だった。おれは中年になっても未だに「でっくん」などと恥ずかしいあだ名で呼ばれているが、そのあだ名を肉親以外で一番最初に呼んだのは、四歳のD樹だった。
 
 D樹にまつわるエピソードは数え切れないので、書ききれるはずがない。この辺の話はヒロ吉も相当に詳しい。
 
 D樹は小学校低学年までマブダチ、いや子分だった。おれはガキ大将ではなかったが、年の離れた姉兄がいたので非常にマセていた。D樹の自転車に油を注してやったり、ランドセルをエイジド加工してやったりした。献身からではなく、知らない事を教えてやる事で彼をおれから逃さない為だ。
 本当に、どんくさい奴なのだ。
 
 おれはいつもD樹の家に押しかけて外へ連れ出した。いつぞや、D樹がまだ行ったことがない隣町までサイクリングと称し、連れ出して、巻いた。彼を置いてきぼりにした。
 夜、ぐふふふというサド心と共に、胸騒ぎがした。急に心配になった。
「D樹くん居ますか?」などと電話をした日にゃ、奴のことだ、親に告げ口しているに違いない。だから彼の家に自転車の有無を確かめに行った。自転車はあった。
 自分でしかけたクセに、安堵した。思えば、おれはとてもオカシイ子供で、そういった奇行は数え切れない。冗談抜きで、ちょっと狂っていたのだと思う。
 
 D樹の父は、おれも一緒に色々な所へ連れて行ってくれた。スキー場、スノーモービル、それは主に冬だったと記憶している。
 父はD樹を溺愛しており、その溺愛ぶりをおれに見せつけるように思えた。かといって嫉妬するわけでも、それ故にD樹をいじめる気も湧かなかった。おれは素直に感謝していた。
 何度も行くとスキーなんかは飽きてしまって、お目当ては頂上のロッジに在るゲーム機に代わった。不屈の名作、SEGAのアッポーである。
 スキーを履かずにリフトに乗って、心ゆくまでゲームをやったら、かかとを立てて靴のまま滑り降りる。
 遠目で見たD樹は、相変わらず平坦な坂で父にスキーを教わっていた。何度目のスキー場だったか、やっとボーゲンだった。恐れおののく眉毛もハの字だった。
 本当に、どんくさい奴なのだ。
 
 アッポー熱はすぐに冷めた。なぜなら、世紀の大革命『ファミコン』が登場したからだ。
 いままで遣っていたなけなしの百円玉を投入しなくともドンキー・コングがプレイできるのだ! それも、電気代さえ払えば! しかも払うのは親さ! hahaha!
 いち早くファミコンを導入したのは、やはりD樹だった。押しかけ頻度は増して、以前のように外へ連れ出す事もなく、ひたすら居座り、めっきり視力と運動神経が落ちた。
 その後、我が家にもファミコンが導入されて以来、D樹とは疎遠になった。同時に、陰毛がちらほらと生えてきて、おれはそっちに夢中になった。
 
 中学時代、D樹との接点はほとんどなかった。目が合えば、彼は伏せていたように思う。互いの視界に、互いが映っていなく、互いが直視できなかった。
 
 そのまま中学時代を経て、高校の入学式が終わった後に、D樹の肩を叩いて「よう」と声をかけると、振り返ったD樹の眼が見開いた。
「なんでお前がここに…!」という顔を全面に押し出した。
 彼にとっては邂逅ではなく、完全に遭遇だった。おれはほくそ笑んだ。
 三年間、D樹と同じクラスになることは無かった。だが、今はどうか知らないが、当時のベビーブーマー世代は体育の授業が2クラス同時で二時間授業だった。そこにD樹がいた。
 あれは基礎体力を測定する授業だった。腹筋や背筋などを測り、特定の用紙に記入する。そうして反復横跳び測定の時間になり、二人一組で一定時間内の反復数を測る。
 すると、周りがざわめいてきた。みんなが注視して嘲笑しているのはD樹だった。D樹は反復横跳びが出来なかったのだ。
 爆笑して野次を飛ばすのが生徒だけならば、まだいい。教師までもが彼を野次り、煽り始めた。
 D樹はピカピカの床に涙を撒き散らしながら、アヴァンギャルドな四分の三横飛びをしていた。
「お前らバッキャロゥ!」なんて全員に喰ってかかれば青春ドラマだが、おれはただD樹を見つめるほかなかった。あの頃のボーゲンと同じだった。違いはギャラリーの嘲笑だった。
 本当に、どんくさい奴なのだ。
 おれが見ていたのはD樹だけではなく、最も醜い顔で嘲笑っている奴もちゃんと記憶していた。仇討ちなんていう気持ちはサラサラなかったが、そいつには同じ体育の授業の柔道の時間に、がっちり頭突きをしておいた。以来、彼と目が合う度にローキックをしておいた。へなちょこ野郎で薄汚ぇ男さ。
 そしておれは改めて教師が、体育教師が大嫌いになった。ありがとうよ、先生ども。貴方のお陰でおれの背骨は軋み、伸びたぜ。
 それ以外にD樹との接点は無かった。いや、直で接してはいないがね。
 
 卒業後、D樹は東京に就職したようだった。高校が勧める求人に喰いついて以来安泰なんて輩は皆無で、みんな一年足らずで辞めていた。辞めることで、安定を手にしている。だがD樹は長かったようだ。その知らせは、D樹の母がおれの母に伝えて、それをおれが聞いていた。
 
 以降十年ほど、D樹のことなどすっかり忘れていた。
 例のごとく母経由で、D樹が実家に帰ってきたことを知った。所謂NEETに化けたらしい。
 本当に、どんくさい奴なのだ。
 おれの母は、福祉活動などに積極的に参加するタイプなのだが、ソレは「苦労している人を助けたい」という自己投影が前提で、「働けるくせに働かない人」には徹底的に冷たいし、たまにビックリする言葉で他人を罵倒する、古い人間なのだ。
 その矛先は、D樹も例外ではなかった。
 
 D樹のいままでの人生のうちで、一番ながいあいだ彼をいじめたのは、たぶんおれだろうと思う。
 そのD樹が、おれに会いたいだなんて、不可解極まりない。彼はおれに会って、おれを刺殺するつもりなのかも知れない。
 それがいい。D樹に殺られるのなら本望だ。
 
 出刃包丁の柄を両手で握りしめたD樹が、おれの前に立ちはだかる。
「どうした? ここを狙えよ」左胸を親指で突いて、D樹を煽る。
「ウオリャー!」猛突してくるD樹。
 半歩避ける。
「ウォリャー!」
 半歩避ける。D樹、コケて自らの額に刃先を刺す――。
 
 本当に、どんくさい奴なのだ。
 
 これは本当の話なんですが、反復横跳びが出来なかったD樹は、高校時代はテニス部所属だったのです。
 
 
 P.S
 ヒロ吉さん。今度、D樹と三人でつぼ八に行きませんか?