未秘との遭遇

 
 善人、ですこです。
 
 知らない人には話しかけられない方だと思うんですが、こないだ久し振りに話しかけられた。
 昼間、歩道を歩いていると後方から車のウィンドウ越しに「すいませーん」と、男性の声がした。爽やかな声だったので振り向いて見てみると、ナンバーが「れ」の車に中年男女が二人乗っていた。
「美術館はどこですかー?」眼鏡を掛けた爽やかな男性が訊いてきた。彼女らしき助手席の女性も爽やかな淑女だった。察するに、上着は共に無印良品だろうと思われた。
「この通りを5条ほど北上して北一条通りを西に5丁ほど進めば見つかるはずです」と、少しいじわるしてみる。
「…観光なもので」
「では、このままあっちへ(北を指し)行って《円山公園》の標識に従って左折すると、右手に一丁角柵で覆われた建物が見つかります。10分以内に着くはずです」
「そうですか。ありがとうございました」
「どういたしまして」
 人に道順を教えるというのは気分がいいものです。感じの悪いヤツにはまったく逆方向を指南するのも気分がいいものです。「時計台にはね、クラークのミイラがあるんですヨ…クックック」
 
 知らない人に話かけられるたびに、思い出す出来事がある。
 あれは今から十年ほど前、終電の地下鉄でのことだった。
 ぼくは週に一度ほど、大抵の週末はバンドの練習や、友人宅でディスカッションをしていた。そうしてギターを背負ったまま終電に乗って、遠く離れた実家まで帰宅するのだった。
 その時、電車内で茶髪の若者が話しかけてきた。
「兄ちゃん、バンド演ってんの? かっこいいね!」彼は明らかに酔っていた。ぼくも明らかに酔っていた。
「練習の帰りだよ」
「へぇ〜かっこいいな〜。ギター見せてよ」
「いいぜ」
 人目もはばからずギターを見せる。
Fenderだぜ。ボディはJapanだけどピックアップはUSAだ!」
「かっこいいな〜。弾いてみてよ」
「ここじゃ無理だろ」
「じゃあ俺ん家で弾いてよ」
「いいぜ」
 いま思えば不思議な意気投合だった。他の乗客はこの遣り取りをどう見ていたのだろう? 少なくともおれは、こんな遣り取りを見たことがない。
 途中で降りて、彼の家へと向かう。
 彼の部屋は絵に描いたような下宿だった。風呂トイレは共同、ブリキ調の流し台、砂壁にポスター焼け、四畳半一間にやたらでっかいカビ臭い押し入れetc.。
 辿り着くまでの会話で、彼が年下で函館出身だという事がわかった。イニシアチブはぼくが握っていた。
「お前よぉ、ここ家賃なんぼよ?」
「3万」
「高ぇよ! 引っ越せよ、こんなとこ」
「そんなことよりギター弾いてよ」
 なにを弾いたのかは憶えていない。
「もう12時まわってるぜ。この密集度じゃ苦情がくるな」
「ヘッ! 関係ないよ」彼は吐き捨てるように言った。
 
 四つん這いで押し入れを漁りながら彼は言った。
「いいモンがあるんだよ」
「なんだよ」
「ちょっと待って」
 イニシアチブを握っているぼくは、彼の尻をペシペシ叩いた。
「まだかよー、なに探してんだよ」
「待ってよー、あ、あった!」
 振り返った彼の右手には、新聞紙で巻かれた出刃包丁が握られていた。
「凄いっしょ、コレ」新聞紙を剥いで、彼は怪しく笑んだ。
 家庭用の三徳ではなく、漫画のように刃が波模様を呈した厚みがある本格的な包丁だった。ぼくは生命の危険を感じた。
「テンメーェ!」飛びかかって彼の右腕を締め上げて、包丁を取り上げた。
「イデデデデ! 違う、違うって!」
「ヴルゼー! ゴンニャロー!」
「違うって! おれ料理人なんだよ!」
 やっと我に返った。
「…本当か?」
「ホントだって! もう離してよ」
「す…すまん」
 
 いま思えば、である。
 彼はぼくのギターに対抗して、包丁を見せたのだった。
 彼は名刺をくれた。郷土料理屋の、上品なデザインだった。
 
 その間、なにをしてなにを話していたのかは記憶にないが、空はもう明るかった。もはや互いに酔いも醒めていたが、彼は言った。
「いまからテレクラ行かない?」
「テレクラなんか行ったことねぇよ」
「大丈夫。いい店あるんだ」
「近所にあんのか?」
「離れてるけど、車があるからさ」
「お前、車持ってるの!?」
 
 駐車場まで向かう間、イニシアチブは逆転してしまった。
 テレクラに着いたのは午前6時頃。『受話器は左手に持ち、右手人差し指で突起物を押さえる』という作法は、未経験ながらも知っていた。その甲斐もなく、午前7時の銅像たちは店を後にする。
「送ってってあげるよ」
「いやいいよ。もう始発あるし」
「いいってば」
 完全な飲酒運転。いまと比べると、罪悪感は皆無に近い。
「のどが乾いたなー、なんか飲みたい」ぼくは言った。
 郵便局の隣に自販機があった。
 前方に車が停まっていた。彼は言った。
「ふふふ、ギリギリまで付けてやろう」
 案の定コツンとぶつかった刹那、初老の男性が激怒して降りてきた。
「すいませんすいません! こいつ酔っているもんで」と、ぼくは現代なら考えられない言い訳をした。
 しかし当然、矛先は運転手に向かう。
「貴様っ! どういうつもりだ!」
「ヘッ! ウルセー!」
「な、なにおう!?」
 老人とて怒るとなかなかに怖い。ラチがあかないのでひたすら謝るぼく。
 
「んだよあのジジィ」
「どう考えたってお前が悪いぜ」
「でも言い方ってあるべ」
「それ以前の問題だな」
「そうかなぁ」
「そうだよ」
 
 家の近くに着いた。
「ここでいいよ」
「家の前まで送るよ」
「いや、ここでいい」
「なんで?」
「女じゃねーんだからよ」
「ハハハ!」
 
 降りたのは、市道の橋の上だった。
 わざとらしく吹かした彼の車に、手を振る。
 桃色した朝焼けの中、川沿いの老人農園を通り過ぎる。
 農具を背負った老人と、ギターを背負ったぼくがすれ違う。