虫日記

 
 虫の息はたぶん臭い、ですこです。
 
 MYガレージで(すいません、格好をつけてしまいした。ボロアパートのきったない車庫です)ブリバリとチャリンコをいじる。だんだん解ってきたぞー。
 前輪のタイヤパターンの向きが逆だ、と指摘されたのでチューブの詳細の調査も兼ねて前後ともタイヤを外してみる。
 最近のスポーツ車は「クイックレバー」という代物でホイールを固定してあるので、脱着の際に工具は不要だ。
 そういえば以前、ニューヨークのチャリンカー達が自分の自転車から離れる際、盗難防止の為にわざわざホイールを外して持ち歩いていたのを思い出した。「なんて面倒な事を!」と思っていたが、クイックと銘打ってあるだけに脱着は非常に容易だ。カンタン過ぎて装着後はちょっと不安でもある。
 ぼくのMTBは2.35インチの極太タイヤなので、空気を抜けばひとりでにタイヤは外れ、チューブは勝手に露わになった。装着も簡単で、タイヤレバーなんかは不要だった。で、向きを間違わないようにハメて、ホイールを装着した後にタイヤサイドに記してある空気圧の表示探しているうちに、ある事に気づいた(黒いタイヤの凹凸文字は非常に読みにくい)。
 タイヤの進行方向を示すサイドに書かれた矢印が、二つあったのだった。一方の矢印はFRONT、反対を向いている矢印にはREARと書かれている。《←FRONT REAR→》という風に。
 つまりこのタイヤは、前後の向きをそれぞれ逆向きにハメるという、特殊なタイヤだったのだ。普通は前後とも『→』のパターンに向かって進むが、このタイヤはフロントが『←』で、リアが『→』なのだった。
 要するに、最初のままが正しいカタチだったのだった。なんたる徒労か。しかもタイヤの名前は「Death Grip」、曲訳すれば「餌食」となりましょう――お れ は 羽 虫 か 。
 ちなみにバルブも一般車とは異なり、仏式などは緩めて先っちょを押せば空気が抜ける仕組みになっている。これはママチャリと同じく“虫ゴム”が、弁の役割を果たしているからだろう。
 ただ、どうして「虫ゴム」なんていう名前が付いたのだろう? このネーミングセンスには、昭和の匂いがプンプンする――
 
 
 小学生時代、ぼくはしょっちゅう山へ虫を捕りに自転車で行っていた。ドブ臭いザリガニなんかとは違って、昆虫にはロマンと野性味があった。早朝に行かなければ出逢えないところも乙だった。もちろんクワガタが目当てだ。
 しかし、そう簡単に上等なヤツが獲れる訳でもなく、近所の店ではコーラを三本我慢すれば買える値段で、“ギュウ”のクワガタを売っていた。流線型の無意味なサスマタ、憧れだった。もちろん買ったけれど、やっぱり自力で捕りたかった。
 いつしか、七つ上の兄がこう言った。
ホットスポットが、あるぜ?」
「ほんとうかい?」
「本当さ。だが、夜中に樹に蜜を塗っておかなければならない」
「その手法は、図鑑で見たよ」
「夜中に起きられるか?」
「起きるさ! つーか、眠れないよ!」
 
 蜜を持参して(なんか、水飴を薄めたヤツ)、兄が運転するショッキングピンクの直管スクーターのシートの前に乗り、ホットスポットに到着。
 懐中電灯を頼りに蜜を塗布する。名前も知らない虫がわんさか集まってきたが、お目当てのクワガタは一匹も居なかった。
「ほんとうに来るのかい?」
「明日の朝には大漁だ」
「朝って…もうすぐ朝だよ」
「俺は家に帰らないけれど、お前は家に帰って、明朝6時にもう一度ここに来ればいい。場所は憶えたな?」
「ラジャー」
 
 翌朝、光景に驚いた。見たこともない虫たちの混雑の中に、なんとカブトムシが居た。
 当時の北海道には、野生のカブトムシはまだ棲息していない。居るとすれば、逃げたか、逃がしたかである。実際、そのカブトムシは角が折れた不良品だったから、後者なのだろう。
 だがぼくはその不良品を慎重につまんで虫籠に入れた。他にも興味深い昆虫はいたが、カブトムシに傷がついちゃマズいので無視した。で、兄の言葉を思い出した――
「樹を思いっきり蹴っ飛ばせ。大量の虫が降って落ちてくるぞ」
 ぼくは土踏まずで、思い切り樹を蹴飛ばした。ドカドカと虫が降ってきたが、すべて無視した。だってぼくは、黒いダイヤモンドを捕らえたのだから。
 
 家に帰って、VIP籠に黒ダイヤを移し、まじまじと見つめる。野生じゃないかも知れないが、ぼくが捕らえた時点でそれは野性だ。心なしか、図鑑よりも体毛が長い。コイツは野生に違いない。ぼくは彼に、ティッシュに染みこませた砂糖水ではなく、スイカの赤い部位を与えた。翌朝までの別れは名残惜しかったが、睡魔には勝てなかった。
 深夜、「キャー!」と、プライマルなスクリームがこだました。母の声だった。
「ですこー! コラー! 起きなさいー!」と絶叫している。
 寝ぼけ眼で居間に行ってみると、黒いダイヤが、照明器具の周りをブンブンと元気よく飛んでいた。ぼくは思った――やっぱりコイツは野生だナ、と。養殖たぁバネが違うネ、と。
 彼はスペシャルだったので、酸素が行き渡るように、虫籠の蓋を少し開けていたのだった。
「ギヤーッ!」虫嫌いの母は、もう、すっかりイカレテしまった。蠅叩きを片手に、フルスイングで黒いダイヤをぶっ叩いた――ぼくの目の前で。
 
 
 ぼくはもう一度、山に行きたい。虫を捕まえるのではなく、コイツを撒きに。
 

 
 種は合法さ。
 名付けられていない虫みたいに、知らないところで淘汰されて、しらない日陰で増殖すればいい。
 いまはまだ、ね。