結局ソッチかい

 
 もっこり市場ですこです。あるんです、そういう居酒屋が。
 
 帰宅後、チャリンコで走っていると浴衣の女性を発見、「またか!」と引き返す。しばらく休日がなさそうなので、チャリはおあずけか。くそう。忙しいのに減給の予感。チキショウ! 辞めたらぁ!
 先週同様、花火大会の音が五月蠅くてですね。でも厭じゃない。
 そりゃぼくだって、若かりし日は女の子と一緒に花火を観に行きましたよ。
「花火って綺麗ね」
「君の方が綺麗さ」
「でもちょっとウルサイわね」
「君の方がウルサイさ」
「パーッと咲いて、散って、花火って儚いわ」
「君の若さの方が儚いさ」
 そうして頬にもみじが咲いたりしたものさ。
 
 わたくし、こう見えても結構お祭りが好きなんス。人混みは嫌いですけど、イベントならイイんス。だから人の少ない祭りは大嫌いなんス。
 近年、札幌では「YOSAKOIソーラン祭り」なんてのをやってますが、あれはヒドイ。ネーミングからヒドイ。
 一回だけ観に行きましたが、観客にとっては、それはそれはクソツマライ祭りです。予め出場が決まっている参加者は愉しいんだろうけど、それって祭りかい? 祭りの醍醐味ってのは、誰でもリアルタイムに踊りに参加できる事でしょう?
 酔っぱらったジジィと隣近所のババァが手を繋いじゃったりして、それ目撃したババァの旦那がキレて、そのエロジジィを団扇でぷっ叩いたりするんだな。それを若者が見て「こんなにシワシワの80歳でもヤキモチを焼くんだなァ!」という人間のサガを学ぶわけだ。
 祭りはプリミティヴなほうが良いに決まってる。
 ペヨーテやヤヘイやヨポを摂取して踊り狂うインディアンたちは正しいし、フィジー島の天然抑制剤“カバ”は本来、客人をもてなすものである。それは酒も一緒だが、そうなるとぼくの独り酒は間違っていると言える。恐らく彼ら原住民たちは「独りカバ」はやらないだろうから。
 ぼくたちが、例えばインディアンたちの祭りを見て、ある種の羨望を覚える所以は、結局は密な繋がりなのだろう。言い換えれば「村」とも言える。
 街に住みながら村に憧れているし、かといって実際に村に住んだのなら窒息してしまうだろう。畠山鈴香などは典型的な“村犯罪”だし、そこに足りなかったのは“祭り”だろう。祭りを忘れたぼくたちは、祀られた彼女を傍観しているに過ぎない。
 社会からドロップアウトしてルンペンになっても、そこには必ず新たなヒエラルキーが生ずる。それが厭でエスケープしたにもかかわらず、そこにおさまってしまう。
 希代の三文文士、故・竹中労はこう言ったっけ――
「弱いから群れるんじゃねぇ。群れるから弱くなっちまうんだ」
 くぅーっ! かっちょいーっ! ちゅ! ちゅちゅちゅちゅーっ! ハゲ頭にちゅーっ!
 mixiを見ていて、そんなことを考えたり。なにが言いたいのかよくわからなくてごめんなさい。
 つぎ生まれ変わったとすれば、ぼくはボノボになりたいナ。