口をすすぐ時に頭を振ってみたり

 
 焼酎イソジン割り、ですこです。肴は肝油ドロップしかあり得ません。その後は鼻血割りで「レ、レッドアイだってば!」と血眼で弁明するがよろし。
 
 今日も明日も明後日も明明後日もずーっと仕事であります。次の休みはいつかなぞなもし。神のみぞ知るというけれど、神などいない事は、この、先の見えないハードワークで示されている訳で、つってもそれほどハードではないけれど。「それほど」という伸縮自在な定規は比較から生ずる訳で、諦念も安堵も比較が由来な訳で、そうなるとぼくは一体いつになったら比べることをやめられるのだろうか。かといって比較から脱却したとしても、先天的な打算から逃れる事が不可能なのが、いわゆる社会なのかも知れない。神とはなんぞや、労働とはなんぞや。開祖と資本は、いつから、誰が始めやがったんだ。悪魔か、そうか。悪魔の親はどんなカタチだ。イビツか。それともフルサークルか。そうか、半透明か。交差点で魂を売るよりも、角でウナギを炙ったほうがカネになる。だがね、ウナギはゴシゴシ洗うと死んじゃうんだ。ヌラヌラを落としてしまうと、胸元にぶら下げた青酸カリを呑んで自殺してしまうんだ。水泳選手が競技中に水着がズッポリ脱げた場合は社会的に死んでしまうように、ウナギも死んじゃうんだ。で、喰われちゃうの。コワイね。そうそう、マグロって、速いヤツは時速300kmで泳ぐんだぜ。しかも眠らないんだ。あり得ないよね。だからぼくはこう思うんだ。彼らマグロは、海流にうまいこと乗っかっているだけだろうとね。気流に便乗する鳥たちと一緒さ。でもなんでその流れが生ずるのかといえば、地球が動いているからだろう。だがこうも考えられる。動いているのはヤツらだと。エネルギーを測る場合、必ず対象が必要になる。つまり相対的に考えなければ意味をなさないのかも知れない。やっぱりぼくは比較から逃れることができないのだろうか。