健気な興行

 
 ウルグアイパラグアイ、ですこです。意味はシュボ(煙草に火を点け)、ないっブンッ!(ライターを窓から放り投げる)
 
 そんなわけでひたすらCDを聴いているんですが、Aの棚じゃやっぱApples In StereoとAretha Franklinがダントツに素晴らしいナ。まだあとAerosmithとかArt Of Noiseとかが残っているので楽しみなんだけど、全て聴き終わるまでには一体あと何日かかるのだろう?
 
 CDを聴きながらTVをミュートしつつ亀田戦を観る。解説が邪魔なのだ。
 1Rに亀田がダウンした時には「こりゃあガチだゼ!」と思ったけれど、判定でまさかの亀田が勝ったので「やっぱヤオかよ!」と落胆したのだった。いよいよ地に堕ちたな、ボクシング界よ。まるで古い香港映画さ。興毅の興は興醒めの興だったってわけよ。サブいことこの上ない。
 ぼくはあのまま“正規”の判定で負ければよかったと思っている。ウィークポイントは何か? と訊かれれば、多すぎて答えようがない。
 1Rからいきなり接近戦でアゴにもらってダウンするわ、ジャブをもらって頭が反り返るわと、つまり首がすこぶる弱い。まだ少年の首すじなんだ。
 経験不足の所為で、試合の組み立てが全く出来てきない。右ダブルなどはただのハッタリで、練習通りのコンビネーションもそれ故にイマジネーションが皆無の単なるオママゴトだった。
 良いところは、スタミナがあることだけだった。恐ろしいほどの練習量を積んでいるのは明らかだった。だが、閃きがひとつもなかった。ソレがないと世界チャンプには絶対に成れない……あいや、なっちまったんだけどサ! ha!
 
 で、ぼくはこう思うんだ。
 解説者の中には鬼塚がいたが、彼は引退前に「世界チャンプになってもなんにも無かった。空っぽだった」と言ったのを、ぼくはよく憶えているんだけど、その時のぼくは「嗚呼、精神的な意味で言ってるんだナ、かっこいいナ」などと思っていたんだが、結局はカネの話だったのではないかな。
 実際、解説に同席していた畑山や竹原なども「ボクシングを続けるよりもタレントの方がラクにガッポリ稼げる」と味をしめている事は周知の事実だし、そうなると“ガチ”なんてのを求める観客の方がナンセンスなのかも知れない。
 つまりさ、亀田の親父は「何年もかけてこのビジネスを成功させた」ってわけだよ。大阪は西成というスラムから、世界チャンプの誕生、それも三兄弟全員がさ! ha!
 なんて陳腐なドラマなんだろう? そしてドラマというのは陳腐なほど視聴率が上がるものさ。クソッタレ!
 
 才能と云うモノはぼくもよくわかっていないんだけど、才能の話をしてみたい。
 例えば、亀田と同じ練習量を積んだ100人が居たとすれば、ぼくは亀田は十位以下だと思う。現実にはあり得ないんだろうけどね。
 ぼくはおそらく世界戦を100戦以上は観ているので、亀田をこき下ろす資格はあると思う。
 ぼくは亀田興毅という人間は好きなんだけど、彼には才能がないと思う。あるとすれば、次男以下だろう。それは先天ではなく後天的に開花するだろうと思う。「兄が負けたから俺もダメなんだ」じゃなくて「兄はだめだけど俺は違う」という変異が出現すると期待している。だから、今回は興毅は負けた方がよかったんだ。このままじゃ泥沼だぜ。
 
 希代のボクサー、オスカー・デラホーヤは、特にボクシングは好きではなかったし、父に強要されたわけでもない。
「僕がボクシングに興味を持つと父が喜んだ」と言った。デラホーヤは父を喜ばせるためにボクシングを始めた。コレは元ヤクルトの石井投手も全く同じことを言っていた。あ、ジミヘンもな。
 
 子供というのは、まことに健気な生き物だ。
 自身の骨が伸びているのにもかかわらず、尚も親を喜ばそうと全力を注ぐんである。
 このパワーが間違った方向に行くと、トラウマになってしまう。
 よく「子育ては難しい」とかいうけれど、そういうベクトルを理解していれば、親なんかはピンボールマシンのちょっと気の利いた障害物でしかないと思うんですけど。
 
 なんて、独身のぼくが言ってみるテスト。ぼくですこ。