原爆記念日

 
 去年も別のところで書いたかもしれないが、いま一度書いておこう。
 
 今から61年前の1945年8月6日午前8時15分17秒に、B29エノラ・ゲイは広島に「リトル・ボーイ」を投下した。爆弾にはパラシュートが付いており、高度580mで炸裂した。
 この光景を、運良く生き残った人たちは「爆発の瞬間は太陽のようだった」と共通した証言を残している。
 広島市内の建物62.9%が全壊全焼、5%が全壊、24%が半壊半焼、被害を免れた家屋はわずか10%だった。
 爆心地から半径500m以内に居た者は90.4%が即死、1km以内で59.4%、2km以内の総計は39.8%にも達した。
 同年11月までに死亡した人数は14万人、五年後の1950年までには24万7千人に達する。
 以上が広島での話である。
 
 同年8月9日、早くも、人類史上二発目の原子爆弾「ファット・マン」がB29ボックス・カーによって長崎に投下される。
 当初は小倉市を標的にしていたが、雲天だったために第二標的だった長崎は松山町交差点東90mの上空503mで炸裂した。
 三方を山に囲われいる地形のため、被害は一地域に集中した。全壊は全市の36%にとどまったが、「爆発地点ヨリ半径200m以内ニ在リシ人畜ハ防空壕ニ行ッタ数名ヲ残シテ全部即死」というのが現実である。
 同年12月までには約8万人が死亡した。
 以上が長崎での話である。
 
 合計で32万7000千人が死亡した事になり、実際はもっと多いはずだが、ぼくは詳しい数を知らない。
 
 あまり知られてはいないだろう、裏話がある。
 アメリカで興った原子爆弾製造計画(マンハッタン計画)は、元はといえば「ヒトラーが原爆を手にしたら大変なことになる」と危惧した、ヨーロッパから亡命してきた科学者たちによって進められてきた。
 しかしソレが完成した時、ヒトラーは自決しておりナチスは崩壊していた。
 指導的科学者の中でも最も洗練された政治センスを持ったジェームズ・フランクは、マンハッタン計画に参加していた科学者150人に対して意見調査を行った。
 それによると回答者の48%が「孤島で原爆実験を行い、その威力を日本の代表者に見せつけて降伏をうながす」という、穏健な勧告に賛同していた。
 フランク博士はそのアンケート結果を政府に提出したが、アメリカ政府は一部の科学者――クソッタレの科学愚者ども!――の意見に従い、投下を決定した。
 半数もの識者が居た、というべきか、半数しか居なかった、というべきか。
 尤も、たとえ1/4しかいなくともアメリカは原爆を落としただろうがね!
 
 以上のほとんどは、講談社「世界全史」および「日本全史」から引用させて頂いた。
 
 ぼくはアメリカの音楽は好きなんだが、アメリカ人は嫌いである。ぼくが好きなアメリカ音楽の大半は、被差別からの発祥なんである。
 
 戦争には反対だが、闘争をやめるつもりはないのである。
 
 黙祷!