ようこそ、ふりだしへ!

 
 薄暗い店だ。シャーシの中で煌めいているKT88と同じくらいの明るさのダウンライト、ターンテーブルの前には「Blues Sonata」――皮肉なタイトルだ。皮肉を肴にいったい何杯呑んだのだろう? ガットギターの音色には、時を忘れさせる魔力がある。
 畳み掛けるようなチャーリー・バードのフレーズに呼応して、まるで黒子が釣り糸でも引いたかのように丁度ぼくの前に何かが滑ってきて、止まった。
「マスター……これは?」
「あちらのお客様からです」
 マスターが掌で指した先には、微笑した美女が佇んでいた。察するに、二次会を回避してこの店へ来たに違いない。一方的な自己主張の空間であるカラオケが嫌いなんだろう。そう、唄というのは全てを棄てる事から始まるのだから――それも最初に自分を、ね。自分に酔う事と、音楽に身を委ねる事は全く正反対さ。
 ぼくは笑みを返して液体に口をつけた。刹那、小瓶が滑って来て、止まった。ぼくはそれを振りかけて、液体を啜りながらこう言った――
「マスター……この塩ラーメン、最高だよ!」
 
 こと、ですこです(長ぇーよ)。
 
 
 思うところあって(これについてはいずれ詳しく述べよう)、生活態度を改めようと考え、実行している。と云っても、何も特別な事を始める訳じゃなく、特別な事をやめるだけの話である。ぼくの場合は、多量の酒がそれに当てはまる。
 中心部近くの密集した住宅街には一人暮らしの若者が多いのだが、窓際に飲み干した酒瓶をこれみよがしに飾っていたりする。ジン、カンパリウォッカなど海外製品のラベルが目立ち、間違ってもそこには《大五郎》はない。ウォーホールのポスターと十和田湖のペナントの違いである。
 昔はよく、エコーの空き箱を器用に折って傘をこしらえて天井から吊しているオヤジたちがいた。ぼくの兄なんかはショートホープの空き箱を壁全面に飾っていた。ご丁寧なことに開封時には例の赤い紐で開けるのではなく、チマチマと底から開けて“さも未開封”といった細工までしていた。まったく恥ずかしい。《木彫りの熊》的な羞恥心を覚える。
 窓際の酒瓶にはそれと同じ酸っぱい匂いがする。ぼくも若かったのなら彼らと同じ行為をしたのかも知れない。もし今ぼくが同じ事をしたのなら、一週間で空き缶と大五郎のペットボトルとそれを割るお茶で、窓際は埋め尽くされるだろう。
 ぼくは火曜日の夜に緊張した。水曜日は資源ゴミの日だからである。一週間で、45Lのゴミ袋は酒関連の亡骸で満杯である。中にはスポーツドリンクもあるが、いわずもがな、夏の所為ではなく酒による脱水症状を癒すためのものだ。それも早朝に飛び起きてラッパ飲みだ。
 もしこれを近所の人に目撃されたら――そう考えると恥ずかしくなった。そう、ぼくは恥ずかしいくらい呑んでいた。袋内部の外側はお茶やアミノサプリで固めて(もちろんラベルは外向き)、内部に酒関連を詰め込むという周到さは、紛れもないアル中の沙汰である。稲垣足穂のようにピンクの象の幻覚でも現れたのならどんなに救われただろう。残念ながらぼくにはなにも起こらなかった。せいぜいホコリ由来の飛蚊症だったさ。
 
 そんな訳で生活改善を日曜日から続けている。具体的な内容は――
・肉は食べず、なるべく魚
・夕食は早めに
・酒は遅めに
・ビールや発泡酒ではなく、なるべく嫌いな酒
・半身浴
・飲み物は水のみ
 以上、極めて普通の内容だ。だが普通の事がむつかしくなるのが所謂『中毒』なのだろう。
 四日続けて身に沁みたのは『ぼくは孤独である』、その実感だった。孤独な状態には耐性があると思っていたものの、こうも孤独を叩き付けられるといかんともし難い。お陰でクリーンな時間が増えたので積ん読していた本ばかり読んでいる。脳が飢えていたんだろうか、貪るように読んでいて、それが愉しいし、自棄にいちいち沁みる。感性の球体が亀頭みたいに敏感に反応する。だがいくら昂ぶったところで射精はできない。だれもぼくの亀頭を“お掃除”しちゃくれない。ぼくはやはり孤独だ、みじめなくらいに。
 
 そんな事を、4本目の発泡酒を呑みながら書いている。
(→タイトルへ)