無惨な静謐の味

 
 食文化は残酷の歴史である、ですです。
 
 最近は真面目に料理をしている。元々、夕飯は自炊していたのだが、決して料理好きというわけではなく、近所の外食や弁当にほとほと飽きてしまったという消極的な理由で、例えば引っ越しをしたのなら、界隈を食べ尽くすまでは自炊をしないだろうと思う。それに札幌という所はラーメン屋ばかりで、優れた定食屋があまり無いのだ。
 弁当屋にも色々あって、大手チェーンなどはコンビニよりはずっとマシだが、やはりすぐに飽きてしまう。
 かつて近所に『こがねちゃん弁当』という小汚い、おばちゃんが一人でやっている店があって、よく利用していた。貼り出されている悪筆で書かれたメニューの紙は油汚れの染みでまみれていたが、どこの弁当屋でも厨房はおおむね汚いのだから構うことはない。
 いつぞや鯖塩焼き弁当を頼むと、会計時に「また来てね!」と切実に言うのだった。数日後、お店は潰れてしまった。
 自炊を頻繁にするようになったのはそれからで、キャリアも長いが、最近は“真面目な料理”を始めている。
 献立は種類に乏しく、肉や魚を焼く、カレーやシチュー、スパゲティ数種、スープ数種程度で、揚げ物は始末が面倒なので作らない。かつては揚げ物も作っていたが、油の始末は牛乳パックに入れて口をガムテープで閉じて燃えるゴミの日に出してたけど、いいのかしら。いいよね。燃えるゴミを促進させるんだから。
 最近は《鍋》にハマっている。鍋料理といっても一人用の土鍋なんかは持っていないので、片手鍋で作ってそれをそのままちゃぶ台に持ってくる、という色気もクソもない代物だが、これが案外おいしいのだ。
 
常夜鍋(とこや・とこよ・じょうや・じょうよ、呼び方は何でもいいらしい)
 ・豚ロース薄切り適量(しゃぶしゃぶ用でも構わないが、しょうが焼き用だと厚すぎる)
 ・ほうれん草適量
 
 材料は以上である。
 水を入れた鍋に昆布を敷き、沸騰直前に上げる。そこに水の倍の量の日本酒を入れて、あとは具材を投入して味ぽんで頂くのみ――簡単すぎる。
 ぼくの場合は炭水化物断ちをしているので、ごはんの代わりとして豆腐を半丁入れている。食べている間にほろ酔いになってくるのが好ましいし、日本酒のみで作る場合もあるようだ。
 鍋汁自体に味はないので残りは棄ててしまうが、禁酒中のアル中と一緒にこの鍋をやれば、飲み干す様も見られて愉しさもひとしお。
 白菜やえのき茸を入れてアレンジする事は容易だが、シンプルな方が美味しいだろうと思う。
 味ぽんを発明した人には、ノーベルつけだれ賞をあげるべきだ。
 
 名前の通り、毎晩食べていたがさすがに飽きてしまい「鰹だしで鍋を作ったらどうか」という案が浮かんだ。
 なんとなく鶏挽肉と白菜と鰹節を買ってみる。挽肉と卵と葱と生姜をこねて団子を作り、たっぷりの鰹節を入れて出汁を取る。凄まじくいい匂いがする。
 酒、醤油、みりんを入れて味を調えて具材を投入し灰汁を掬いつつ煮込み、おたまで味見をしてみる――ブッ飛んだ。あまりの旨さに佐川くん状態。
 鰹だしってこんなに美味しいものか。なんだろう、この優しさ。それも、深みのある優しさ。貸したハンケチを返された時にほんのり柔軟剤の香りがしたかのような。サラ・ヴォーンよりもエラ・フィッツジェラルドダイアナ・ロスよりもアレサ・フランクリン小柳ゆきよりも欧陽菲菲(続けようと思えば続けられる)。
 
 あまりに鰹だしが素晴らしいので、翌日も取る。献立は、共に出汁が使える親子丼と味噌汁である――うめぇ、美味すぎる。
 あたしね、もう毎晩鰹だしで味噌汁作っちゃうね。旨さがはんぱじゃないもの。つーか味噌もいらねぇな。鰹と塩でいいや。