こまわり君の憂鬱
イオマンテの夜、ですこです。
事件というものはもの凄い速さで風化するものですが、掘り下げようと思えば結構深いところまで行けるものです。でもほとんどの人はそれをしません。
YouTubeで呉智英を検索してみると昔の朝生にヒットして、とても面白い映像だったので貼っておきます。
その一
⇒ http://www.youtube.com/watch?v=tiCUWksvgqg
その二
⇒ http://www.youtube.com/watch?v=SzyYwdCjDAM
ぼくは呉智英が結構好きで、著作も何冊か読みました。歯に衣着せぬという表現がピッタリで、挙げた映像を見ればわかると思いますが、非常にウィットでもある。他の出演者が色褪せて見えるのは、呉が他よりも人権問題について深く考察しているだからでしょう。ぼくが尊敬している故・遠藤誠翁も出演していて、二人は考え方が似ている事に安心した。ちなみに呉は、最近よくテレビに出ている宮崎哲弥のお師匠さんです。
よく「先進国で死刑制度があるのは日本だけだ」などと言われますが、そもそも『先進国』とは何だろう、という疑問が湧き上がる。先進国とは主に白人社会を指し、それは侵略の歴史であって、死刑はおろか原住民を虐殺して居直っているに過ぎません。
例えば、19世紀にオーストラリアに侵略したイギリス人は、原住民であるタスマニア人を“狩りの要領で”絶滅させています。絶滅ですから、もう地球上には居ないのです。
アメリカはいわずもがな、一応書いておきますが、カリブ海の国々にも元来は黒人はいなくて、白人が原住民を殺し過ぎてしまったが為に、アフリカから連れきた奴隷を“補填”したに過ぎません。
そんな自称先進国に追従していいのでしょうか?
死刑制度を考える上で、ぼくが感銘を受けた本を紹介しておきます。
私は「悪者」に味方する / 遠藤誠
死刑制度につていは、 以前の日記 にも書いてありますが、いまも同じ考えです。
死刑制度および報復論について議論する場合、子持ちとそうでない人には温度差があります。頭では解っていても、どうしても感情的になってしまい、自分の子供が殺されることを考えただけで武者震いするようです。
それとはあまり関係ありませんが、荒川洋治が書いた一編の詩を転載しておきます。既婚者独身者も読んでみて下さい。親も、これから親になる人も、なるつもりもない人も、この詩を読んでみて下さい。
みる子 / 荒川洋治
ひるちかくまで
家にいると
みる子が
幼稚園から帰ってきたらしく
もの音がする
しばらく
すると
階段をあがってきたらしく
もの音がするぼくはこの五歳の娘の
父親ということになって
いる
けれ
ど
三日に一度、安否を
しらべる
くらいで
この子を
世の多くの子どものなかからたまたま
この一人の子どもを
担当
している
という顔を
している
担当というのは
実にわけもなく
簡単なことで
もちろん
簡単は単純
に
つながら
ず
担当者はときに
汗をひからすことも
あるにはある
のであるが担当
なのだ
どこにでもみかける光景の
なかに
みる子と二人
置かれる
という危険を
生まれたときから
さけているのは
たとえば
自分の子どもと二人
知らぬひとびと
知ったひとびとの前に
現れて
その知らぬひとびと
その知ったひとびとが
それぞれにそれぞれの
子どもを
かわいい子どもを
つれている
という
其処へ
子どもと自分
も
現れるとき
自分の子どものみを
かわ
いい
と囲い切る
あの目
よその子どもを最終的に
外へ
はじき出している
あのもっぱらの目
あの目を
見つける
ことを悲しむ、から
だ
あのもっぱらの目を
ひとの目に見出すとき
ぼくの心は暗くなる
どんなにその親を
人間として高く
買い
あるいは友人として
高く捉えているという場合でも
あの目のぬしと
なれば
そのひと、を
さげずんでしまうところがある
のだ
自分の子だからかわ
いいというあの目
そのおくにあるこころを受け取る
思いに血がまじる
みる子とは赤い菓子を本気になって
うばいあっている、から
そう思う
のではない
担当というポリシーのみで
あの目 と
たたかうことはできない
けれど
森の中でそのこころ、を
布にくるみ
まもろうとして
いる
ぼくは
わが子、への
ありあまる思いを
持たない
鳥が来れば岩陰へおしこむ、だろう
日が昇ればそれを共に見上げる空気のなか
しばらくぶらっと二人入っている、だろう
だが
ぼくは
この子を
あまたうごめく子どもたちのなかの
この一人を
たまたま
担当
しているにすぎない
という思い
に
ああ
ひるちかくまで家にいると、そんな
かかわりのうすい
みる子が
幼稚園から帰ってくる
もの音を聞く
しばらく待つ
と
階段をのぼる
小さな音がして くる
その
音
もの音、
だけを
担当者の耳は
ひろい
取る