Que Sera,Sera

 
 老後を考えた瞬間から老人である、ですこです。
 
 母が入院してから、めっきり着信履歴が増えた。以前までは、電話が鳴っても「後でかけ直せばいいや」と気まぐれだったのだが、こういった情況におかれると着信音にやたらと敏感になってしまう。
 勤務中や外出時はズボンのポケットに入れてバイブモードにしているので、ちょっとした振動を感じても「ハッ!」となってしまう。露出系のエロビデオによくある、街でリモコンバイブを股に挟んでいる女優の気持ちが、少しだけわかった。
 これは今だから話せることだが、救急病院に搬入されたのは深夜だった。現在、社会問題として取り上げられている通りの、過酷な労働環境下におかれていると思われる、眼が充血した医師の話を静かに聞いていた。そこでの説明とレントゲン写真で、初めて脳梗塞であることを知った。
 退室してロビーに行くと、普段はマナーモードにしているはずの携帯が鳴った。このブログの読者でも憶えている人がいるかもしれないが、ぼくの着メロは中野正次の『生き地獄』という曲である。着メロはインストなので、知らない人は一聴しても普通にダサイ曲としか思わないだろうが、この曲は歌詞が凄い。

 あの世へ行ってみませんか
 どうせこの世は生き地獄
 苦しみだらけに
 悩みだらけ

 ぼくは、着信画面を見ることなく、握りつぶすように電源を切ったんだった。
 え? いま現在の着メロ? お・ん・な・じ☆
 


 
 リハビリ期間はいいとして、その後の母をどうするかが家族にとっては問題だった。家族といっても、近くにはぼくしか居ない。姉は千葉、兄は神奈川だ。
 やっかいなのが、どこまで回復するかがまったくわからない、ということだ。回復する人もいれば、悪化する人もいるそうだ。悲観的なのかもしれないが、ぼくはあのままだろうと思っている。左の片麻痺と聞くと、右半身は通常通り動くと思われがちだが、健常者が描くイメージとは違って、「半身に肉の塊がぶら下がっている状態」と言えばイメージが湧くだろうか。重いんである。動く方を酷使するので痛みも伴い、「右だけはピンピンさ!」というわけにはいかないのが現実だ。
 兄弟で話し合った結果、千葉の姉の家が一番いいということになった。まったく有り難いことに、義兄も姪も、母を受け容れることには積極的で、バリアフリーの新築を建てる計画も練っている。しかも義兄は大工だ。
 しかし重要なのは、本人の意思だ。母は、姉にも兄にも「ですこと暮らす!」と言ってはばからない。幸いにして(不幸にして)ぼくは独身である。仮にぼくが既婚者だったとして、兄弟間で押し付け合いになったと想像すると、これはつらい。
 ぼくは姉兄に「本人の意思を尊重するなら俺と暮らすことになる」と話した。姉兄も複雑な心境だっただろうと察する。しじまが訪れた。
 そこでブチギレたのが、兄の嫁である。男児三人の母にして証券会社に勤めており、週末はサーフィン、趣味はネイル、値引きのプロにしてセールスを追い返す天才である。しかもぼくと同じ年だ。
「お母さんが一人で生活できないのなら、本人の意思なんて関係ない!」
 野蛮の血が入ってきた我々家族は、黙るしかなかった。
「とりあえず無理遣り連れてきて、治ったらまた札幌に返せばいいのよ!」
 ハードコアのシャウトに、我々家族はうなずいた。
 
 母はもはや、ぼくの言うことはまったく聞かない。おそらく、頻繁にお見舞いに行っているせいで、ある種の依存が生じているのだろう。依存、と呼ぶとよからぬ意味合いに聞こえるが、言い換えれば拠り所である。それは、ドラッグもまた然りである、と余計な事も書いておく。
 二人きりだと温和なんだが、友達や看護士が同席していると、とたんにぼくをコキおろし始める。ぼくはヘイヘイとやっている。
「千葉に行け。それが一番だ」と言っても、「あたしゃ行かないよ!」と言う。
「家族で話し合った結果だ」と言っても、「なんでお前らに決められなきゃならないのさ」と言う。
「札幌は冬があるから大変だぞ」と言うと、「友達と離れる方がよっぽど寒いね!」と言うので、「友達がお見舞いに来るのは最初だけだぞ」と言うと、黙ってしまったが、そのあとにこう返してきた――
「あんたは今でも独身なんだから、あたしと暮らしたせいで独身なんだ、とか言うなよ!」
 今度はぼくが黙ってしまった。
 
 こりゃいよいよ同居するしかないと思った。バリアフリー市営住宅、通院のための福祉車両、諸々の免税等を算出してみた結果、なんとかなるだろうと思われた。
 普段は饒舌なくせにいざという時には寡黙になる兄も、さすがにしびれを切らしたようで「俺が話すから、病院から電話よこせ」と言った。
 
 見舞いに行って、母の携帯から兄に電話をかける。
「いま大丈夫?」
「ああ、いいよ」
「じゃあすぐにかけ直す」
 車椅子を押して電話ボックスへ向かう。リハビリを終えた後は携帯すら持つ力がないらしいので、背後に立って携帯を母の耳へあてがってやる。
 静かな病院の隔離されたボックス内は、電話の向こうの兄の声もまる聞こえである。兄は、あえて強い口調でまくし立てているのがわかった。
 ぼくが同じことを言ってもきかないくせに、兄の言葉には「うんうん、そうだねそれがいい」などと、めちゃくちゃに肯定的なのだ! ちきしょう!
 そして母は言った。
「ですこだけを北海道に残すのは心配だわ」
 ぼくは赤面して、噴いた。あのぅ、わたくし今年で三十四なんですケド……。
 だから大きな声で言ってやったさ――「俺もそっち行きゃあいいじゃねえか!」。
 
 民族大移動の始まりである、蒙古襲来である!
 どなたか、良いダンボールハウスを紹介して下さいませんか。