いっつぁわんだふるわーるど

 
 病院のロビーにある計測器で血圧を測ったら160だった、ハイパーテンションですこです。七十歳の血圧だってサ! こうなったらテンション上げて和製ジェームス・ブラウンを名乗ろうか、いやジェームス・ホワイトに倣ってジェームス・イエローを名乗るぜ!
 わたくし昔っから高血圧でして、十代の頃などは学校の診断結果に驚いた母が食事療法を始めやがりまして、毎日ほうれん草とレバーを食べさせられたものです――「おいおい、それって貧血対策じゃねえの?」という疑問は、ごはんと一緒に呑み込んだのでした。
 こういうのってね、遺伝的要素が大半を占めているので食事療法ごときじゃ太刀打ちできないんです。現に母は煙草を吸わないし酒も嗜む程度でした。さらに祖母は心筋梗塞で亡くなっていますので、確実に遺伝ですし、それは脈々とわたしが受け継いでいるというわけです。ここは開き直って煙草をパッカパカ吸うが吉なのであります。
 
 日曜日はK師匠のバースデーライブで御座いました。“師匠”なんて呼んでいますけど、弟子入りしたわけでも、特別になにかを教わったわけでもございません。なんとなく、です。もちろん、そう呼ぶに値する人ではありますが。
 豪華な奏者の面々は前回の画像に出ているので、検索での出現を回避するためにここではあえて書きません。こっそり書くのが愉しいんです。
 場所は老舗のライブハウス〈Bッシーホール〉。ぼくが初めてここのステージに立ったのは高校一年生の時で、ギターのヘッドには当時の彼女が付けていた真っ赤なリボンを巻きつけるという、反吐が出るような、そしてその吐瀉物の中に顔面をうずめて窒息死したくなるような、そんな恥ずかしい想い出をここで独白しておきます。
 客入りは上々――といか満員御礼で、といっても狭いハコじゃないのでおそらくは三百人近く入っていたと思われます。何組かのメジャーアーティストをこのハコで観ましたが、この混みようは初めてで、それは一緒にいた友人も同感だったようです。
 残念だったのはドラムを叩くはずだったT山さんが、ジャズフェスティバルと重なってしまって参加できないことでした。T山さんというのは、ぼくが知る限り札幌でN0.1のドラマーです。
 ドラムレスへの懸念が杞憂だったことは、始まってすぐにわかりました。圧倒的にグルーヴしていて、特にベースのM永さんの力が大きいように思えました。ウッドベースの太い音は鉄階段の手摺りが振動するほどで、ときおり掌で軽くスラップしてリズムを刻んでいるのが窺えました。
 キーボードはエマーソンK村さんで、ぼくの好きな“さかな”というユニットのプロデュースもしている才人で、名前の通り鍵盤楽器の達人です。本来はドラムがある少し高い所に立っていて、膝を軽く屈伸させながら小気味よく鍵盤を叩くのですが、それが撫で肩の蝶ネクタイ姿と相まって、なんとも言えぬ田舎紳士っぷりを醸し出しておりました。
 鍵盤ハーモニカはPニカ前田さんで、以前にも観たんですがピアニカとは思えない音色で、この温か味とダイナミズムはデジタルでは決して得られないサウンドでしょう。ソロで咽せ返ってしまい咳き込んでいましたが、直後に超絶テクで魅せるあたりにプロ根性を垣間見ました。
 K師匠はいつもの通りで、聴き取りやす過ぎるくらいの発音で日本語を唄う独特なスタイルですが、たまにその言葉が聞こえ過ぎてしまう唄も、このメンツだとサウンドと綯い交ぜになって、本当の音楽を聴いたような気がしたのです。本当の音楽って、あるんだよ。びっくりしました。
 先々週だったか、K師匠の店で「ドラムのT山さんが居ないんじゃキビシイっすね」と言うと、「いや大丈夫。きっちりグルーヴする」と、自信と厳しさを混ぜた表情が腑に落ちたというわけです。
 ライブは長かった。開場は十九時、終了は二十三時でした。アンコール時の“前田コール”を興したのは、暴れん坊将軍ことM川くんでした。彼は昔、前田さんのバンドのローディーみたいなことをやっていたらしく、遅刻して叱られた過去があるようでした。
 何人かの懐かしい人とも会えて、なぜか懐かしさを覚える音楽を体感したライブでございました。
「よーし、呑みに行くぞぉー! おまえ幹事やれぇー」と、徹夜で呑み上げているJERRY 'K○JI'CHESTNUTS氏が絡んでくるので、「テロンテロンじゃないっすか」と言うと、「テロンテロンじゃダメなのかよぉ!」とさらに絡んでくるので、「それじゃまるで“ゼリー”じゃねえか」と毒吐いてみると、「あんな音楽聴いたらとろけちまうじゃねえか」とうまく返してきたので、この人は本当に泥酔してるのかしら、と思ったのでした。
 
 とにかく空腹だったので、こっそりとT英とSちゃんで焼き鳥屋へ行くことにする。ビールを二杯呑み終わったころ、千葉から来ているマサ氏から電話がくる。てっきり「早くゼリーの店に来い」という催促だと思っていたのだが、どうやらみんなぶっ潰れてしまって途方に暮れているらしかった。千葉から来ているマサ氏を無下にできるはずもなく、焼鳥屋を出る。T英とSちゃんは泥酔野郎共に巻き込まれることを察知したのか、そそくさと帰ってしまった。
 マサ氏の居る店までチャリを飛ばす。マサ氏以外の面々は、ゼリーというよりもゲル状にとろけていた。それもそのはず、彼らは昼間っから豊平川で呑んでいるのだ。
「どうしようか、マサ氏」
「T郎さんが打ち上げに参加しているらしい」
「じゃあそこに行こう」
「でも、このゲルたち……」
「放っておけばそのうち蒸発するさ」
 
 場末と呼ぶに相応しい居酒屋に、マエストロたちは居た。店が狭いので至近距離、さすがに緊張した。
 M永さんは温厚そうで、エマーソンK村さんはにこやかで、Pニカ前田さんは挙動不審だった。ちびちびと酒を舐めていると、K師匠にバチーンと肩を強く叩かれた。
「どうだった? 今日は」
「感動しました。本当に」
「そりゃよかった」
 それだけだった。どんな賛辞も無意味で、嘘くさくなってしまうだろうと思われた。言葉は空気に触れたとたん劣化してしてしまうことを体感してしまった。
 
 以下は後日談です。
 今日(7/3)は千葉から来ていたマサ氏が帰る日で、夜に彼から電話がきた。ぼくは「気をつけて帰ってね」という台詞を用意して受話ボタンを押したんだが、どうも彼の声はトーンが重い。ぼくは少し嫌な予感がした。
 マサ氏はかつて脳内出血で倒れたことがあって、故郷での弾けた飲酒によってなんらかの病状が顕れてた為の緊急の連絡かと思った。
「もしもし、マサです」
「はい」
「あのさ、お願いあるんだけど?」
 ぼくは緊張した。車の鍵を探した。マサ氏はどこかでぶっ倒れたに違いない。
「いま、家?」
「家だよ! すぐに向かう!」
「パソコン、つけて」
「え?」
 ぼくは安堵した。以前にも、「強風で飛行機が運休になったから、近隣のホテルを調べてくれないか」と言われたことがあった。でもそれは冬だった。ぼくはまだ不可解だった。
「じつはさー」
「うん」
「いつもは汽車なんだけど、今回バスで千歳空港まで行ったのよ」
「うん」
「そこにたまたま見送りに来たK師匠と、Pニカ前田さんと乗り合わせてさ」
「うわ! すげータイミングだね」
「で、言われたわけよ。K師匠に」
「なんて?」
「前田をよろしく、って」
「めとるの?」
「ちげーよ。ほら、前田さんて天然だからさ」
「うん。それっぽい」
「マサ、羽田までよろしくな! ってK師匠に頼まれたんだよ」
「そりゃ光栄なことじゃん」
「でさ、前田さん、空港に降りた時点でヤバかったのよ」
「酔ってたの?」
「いや、素面。でも見失ったの」
「なんで?」
「航空会社が複数あることを知らないみたいでさ」
「うん」
AIR DOなのに、ANAの方に走り去って行った」
「ぶははは!」
「でさ、調べて欲しいの」
「なにを?」
「Pニカ前田さんの本名、ネットで」
「うん」
「まさか『Pニカ前田さーん、至急お越し下さいませ』なんて言えないだろ?」
「オーケー、調べたよ。“活人”。生活の活に、人」
「なんて読むのかな?」
「“かつと”か“かつひと”だろうね」
「どっちかなぁ?」
「“かつじん”という言葉もあるよ。助っ人の意で」
「ややこしいなぁ!」
「“かつひと”じゃない?」
「じゃあそれでいくわ。ありがと!」
 
 さてさて、その後どうなったのでしょうか。報告が愉しみです。