私のおっぱい

 
「ねえ、あなた」
 満タンになった灰皿を見つめながら、妻が溜息混じりに言った。
「その癖、やめなさいよ」
 一瞬、何のことを言っているのかわからなかった。
「人前でもやってるの? 悪印象よ、こんな吸い殻」
 山盛りの吸い殻は、そのすべてのフィルターが千切れんばかりに噛み潰されていた。
「できれば煙草もやめてちょうだい。子供にもよくないわ」
 そう吐き捨てて、妻は息子のもとへ向かった。煙草を咥えていなかった私は、奥歯を強く合わせてから左右に軋ませて、三白眼の牛になった。
 
 元来、私には煙草のフィルターを噛む癖など無かった。息子が産まれてから煙草の量が増えて、おかしな癖もついたのだ。愛の結晶である息子を、私は愛している。しかし、最近の息子は度が過ぎている。私は段々と憎しみを募らせていった。
 私は妻を愛している――正確には、妻の乳房を溺愛している。初めてあのふたなりを目の当たりにしたときの衝撃は、今でもありありと想い出すことができる。巨乳ではないが、乳房の全体に蒼白い血管がうっすらと浮き出ていて、その筋はほとんど発光していた。乳輪は大きめで、小さな疣が鶏皮のように密集していて、それぞれから放射状にエネルギーを送っているようだった。意図的に静電気をおこす装置とよく似ている。核である乳首は、その感度も、強度も極めてデリケートだった。転がすように、とはよく言ったもので、引っ張ってしまうと外れてしまうような危うさがあった。もし乳首がとれてしまったのなら、私は毎夜カクテルに浮かべるだろう。地方では『サクランボの種飛ばし』なんていう競技があるが、私はあれを直視できない。あの下劣なニュースを聞くたびに、私の脳内は、飛ばされた種を待ちかまえて、両手でガーゼを持ってスライディングキャッチする姿で満たされてしまう。
 そんな乳首に、息子は四六時中吸い付いているというではないか。あまりの吸引力に妻は痛がるが、そのうちウットリとしはじめることがなおさら気にくわない。どうやら乳がパンパンに張るらしく、飲ませることで楽になるらしかった。「じゃあおれが吸ってやる」と妻に抱きつくと、張り手を喰らってしまい頬にもみじが咲いた。あんこの入ったもみじまんじゅうと牛乳は相性がいいんだ、と心の裡で呟いて冷蔵庫から牛乳を取りだした。
 いつだったか、酔って帰宅したときに勢いに委せて、息子の足を持ち上げて乳首から引き離そうとしたんだが、サイクロン式掃除機なみの吸引力がある息子は乳首に吸い付いたままで、妻の乳房は思いのほか伸びて、私はすぐさまドリフのコントを想い出した。おばあちゃんのお乳をストッキングで代用する、あれだ。
「ちょっと! なにやってんのよ!」と剣幕の妻には、「こうすると脚が長くなる」と言い訳するのが精一杯だった。
 その数ヶ月後、私の焔に油が注がれた。生後一ヶ月経った息子は歯が生えてきたらしく、なんと乳首を噛むというではないか。百歩譲って歯茎のあま噛みは許せても、歯は許せん。乳首と骨、プリンとチェーンソーである。あのふたなりは、私の発見物、私のもの――愛する息子よ、私とうなじが似ている息子よ、できれば共有したかったが君は一線を越えてしまったようだ。
 
 日曜日、妻が買い物に出掛けたいという。私は風邪を装って、息子と共に留守番をすることを志願した。
 施錠の音を確認して、息子を仰向けに寝かせる。口に人差し指を入れて探ってみる。上に四本、下に二本、共に前歯だ。
「ミルクの時間かい?」
 私は息子を見下ろし、ジッパーをおろして逸物ならぬ一物を息子の目の前にかざした。「おもちゃじゃないよ。これからきみがおもちゃになるんだよ」
 息子の焦点は合っていない。それは私も同じだった。
「きみの兄弟に会わせてあげる。たぶん二億匹くらい。全員オカマだけどな、ハハハ!」
 インターホンが鳴った。ムスコをしまってから息子抱き上げて、応対した。妻だった。両手に買い物袋を下げていて、鍵を開けろと言う。
 息子を渡して代わりに買い物袋を受け取り、膝をついて食材を選別しながら冷蔵庫に入れる。ふと見ると、息子は早速おっぱいを吸っていやがるではないか。
 喉仏を上下させて、私を目尻で捕らえながら、軽くウインクだってしたのだ。