アサシンの冷然

 
 貨物船の一室で、男は正座をしている。肩の関節は抜かれており、両手はぶらりと垂れ下がっている。
「ラジオはまだきみを形容できる」
 男は怯えきった様子で聞き返した。
「一体なにを言ってるんですか」
「きみはまだダルマじゃない」
 一気に血の気がひいた男は蒼白のまま哀願した。両手を合わせようにも動かない。
「なんでも話します! なんでも!」
「秘密を知りたいわけじゃない」
「じゃあなぜこんなことを!」
「知らない方が余生を愉しく過ごせるよ」
「あんた、絶対にこの船から逃げられないからな!」
「タ・マ・ク・ダ・ケ」
「訳のわからないことを言うなぁぁぁっ!」
 覚悟を決めたのか、男は半狂乱だった。
「玉砕だよ」
 そう静かに発して、ゴルゴは男の睾丸を爪先で蹴り上げた。カブトムシの幼虫が潰れる音がした。直後、苦みを伴ったチーズの匂いが立ちこめた。
 
「ジェイ」
 気絶してうずくまっている男の頭上で声が聞こえた。顔を上げてみると、うっすらと『J』が見えた。徐々に視界が開けてくると、それが傘の柄であることが判った。
「Jの次は?」
 ゴルゴは男を見下ろしながら訊いた。
「K」
 そう言った男はすぐにキンタマを探りたかったが、腕が動かない。
「人類最高の発明、なにか知ってる?」
「わかりません」
「考えなよ。二つある」
 そう言ったゴルゴは、傘の柄を人差し指に引っかけて、男の目の前で振り子のように動かした。
「飛行機」
「鳥の方が先達だな」
「電気」
「ウナギ大先生がいらっしゃる」
「セロテープ」
 そう発した瞬間、男は赤面した。
「一つは、釣り針」
 きょとんとした男の目の前からJが消えていて、そのアールは首を圧迫していた。
 背後から傘を引きながら、ゴルゴは続ける。
「Justiceの後は?」
 男は白目を剥いて泡を噴いている。
「Killだな、たぶん」
 ゴルゴは呟いて、傘を踏みつけた。男の顎が持ち上がり、テコの原理で首の骨が折れた。
 魔法瓶の蓋を開けて、液化酸素を屍体の頭部にどぼどぼと振りかける。マイナス二○八度、一瞬にして固く凍り付いた頭部を、カコンと蹴り上げる。
 波で揺れる船内の一室で、頭が四方に転がった。
「もう一つは、車輪」
 ダルマの方がよっぽどマシか、と言いかけて酸化ガスの充満する室内を後にした。
 
 あとは海に飛び込めば任務完了だった。
 一室から、明かりと共に甘いバニラの匂いとラムレーズンのいい香りが漏れてきて、鼻を刺した。覗いてみると誰もいない。いたとしてもすぐに倒せる。
 冷凍庫にはアイスクリームが散乱していた。不思議なことに、一仕事終えたあとにはきまってアイスクリームが食べたくなる。
 カップアイスを握りつぶすように頬張っていると、後頭部に痛みを感じた。アイスを食べ過ぎた時に起こる痛みではなく、手刀、あるいは鈍器によって殴打された時の感触だ――そう回想しながら、ゴルゴは気を失った。
 
 縄が食い込んで手首が痛い。背後で縛られていて、両足首も同様だった。プレ・ダルマ。
「Sir, Duke?」
 中国訛りの英語だった。
「俺はエリントンじゃないぜ、スティービー?」
 船長らしき人物のヘアスタイルは、細かい三つ編みだった。
「アハハハ! 余裕ね、あなた?」
 ゴルゴは応えない。
「もう無理よ、あなたもう逃げられないよ」
 ゴルゴは取り巻きたちを順番に上目遣いで睨みつけた。
「どうしてあんなことした?」
「なにがだ?」
「あなた冷凍してあたまもいだでしょ!」
「殺菌したんだ」
 船長は顎を突きだして、側近に殴打を命じた。ゴルゴの口端から血が流れた。
「あなた優秀ね、頭も全部いい」
「そりゃどうも」
「でも生意気ね、それだめ」
「けっこう従順だよ。こうして任務遂行してるし」
「じゃあわたしにも従ってもらうよ」
 船長はいきり勃ったペニスをゴルゴの目の前に突きだした。東洋人にしては大きく、反り返っていた。
「あなたこれくわえてわたしの部下になる」
 ゴルゴは寄り目で尿道を見つめていた。
「未開の部族はみんなこうして服従させるよ!」
 いきった船長の先からは、透明な液が溢れ出ていた。
 ゴルゴは頬を絞って、唾を亀頭にかけた。
「いいよデューク、それでいい」
 船長がうっとりしていると、側近が騒ぎ出した。
「船長! いまゴルゴの口からなんか出ましたぜ!」
「それ唾よ。服従の汁よ」
「違います! なんか白いものです!」
「それ泡よ。泡立つのよ、そういう時は」
「床に何かが落ちたんです! カコンと跳ねたんです!」
 船長は我に返ってペニスをしまった。そして目の高さを合わせて問いかけた。
「デューク、あなたなに出した?」
 ゴルゴはニカッと笑って、舌を突きだした。舌の先には黒い錠剤が載っていた。
「船長! これ入れ歯ですぜ! 隠してやがった!」
 船長はすぐに悟って、ゴルゴに向き直った。ゴルゴはわざとらしく喉仏を動かしてから、大口を開けてもう一度舌を突き出した。すぐにゴルゴは白目を剥いて、全身が痙攣しはじめた。
 盲目の鍵盤弾きのように狼狽えた船長は叫んだ。
「こいつ呑んだよ! 呑み込んだよ! 自決したよ!」
 だが側近は落ち着いていた。
「船長、ゴルゴの死はむしろ安心材料ですぜ」
 船長はクワッと眼を見開いて、側近を殴り飛ばした。
「バカ! デュークよ! このまま終わるはずない! 彼は腹にダイナマイト巻いてるよ!」
 側近の一人が慌ててゴルゴの腹を探った。筒状のものが腹の周りに巻かれていた。
「すぐ海に投げるよ!」
 側近たちはゴルゴを海に放り投げた。そして猛スピードで船を飛ばした。
 
 数十分後、海原からシュノーケルの先が顔を出した。
 ちくわをくわえたゴルゴだった。
「マイトねぇ。こんなに美味しい非常食はそんなにないぜ」
 ちくわを捨てて、岸を目指して平泳ぎで進む。投げ捨てたちくわには魚がたくさん寄っていた。
 防水ケースにしまっておいたリモコンを取りだして、スイッチを押す。
 遠くの海上で大爆発がおこった。
 それを確認して、股間に手を入れてまさぐる。
 取りだしたのは、ピンクローターだった。こいつを肛門付近の蟻の門渡りに隠しておいたのだ。泡を噴いた迫真の演技は、じつは演技じゃなかった。本当に、よかった。違うところにイッちゃいそうになっちゃったんだった。
 月明かりを頼りにスイッチを確認したゴルゴは、次回は“弱”にしようと決意した。
 そして匂いを嗅いでみた。
 鯖の匂いがした。
 それを海に放り投げると、カモメがくわえて夜空を旋回した。
 黒い錠剤――中身は青酸カリだ。しかしそれはゴムで覆われていた。噛み切らずに呑み込めば、また再利用できるスグレモノである。もちろん噛めば即死。
 彼らアサシンはこれを翌日の便所に喩えて〈ウサギのフン〉と呼んでいる。
 
 携帯が鳴った。エージェントからだ。
「おつかれさん、デューク」
「まだ報告してないのになぜわかった?」
「ここからでも見えたよ、花火が」
「ああそうかい」
「なあデュークよ」
「なんだい?」
「やりすぎじゃないか?」
「指令通りにやっただけだ」
「爆薬はなにを使った?」
プルトニウム239」
「どこで手に入れたんだ、そんなもの」
「いくらでも手に入るさ」
「俺は沈没させろと言ったんだ」
「沈没しただろ?」
「誰が木っ端微塵にしろと言った!」
「あんた、花火の何を見てたんだい?」
「すべて見ていたよ」
「キノコ雲が空に沈没して行っただろう?」
「……わかった。もういい」
「ギャラ、ちゃんと払えよな」
「明日の昼には着くだろう」
 エージェントは乱暴に電話を切った。
 
 翌朝、バイク便の排気音で目が覚めた。インターホンのモニターにはいつもの男が映っていた。
「どーもでーす」
「郵便受けに入れておいてくれ」
「はーい」
 そして男は続けた。
「いつもより厚いですねぇ?」
 ゴルゴはインターホンを切ってから、ほくそ笑んだ。
 TシャツとGパンに着替えて、エレベーターに乗り込む。郵便受けから報酬を取り出して、重さを確認する。スキップを堪えて、目的地まで寡黙な狼を装う。
 
 小綺麗な自動ドアが開く。
「ヒィラッシャイマセェー!」
 ゴルゴは目を瞑りながら言った。
「とりあえずバニラにハワイアンクランチ、マスクメロンにバナスト。そうだな、ジャモカアーモンドに大納言。これが右手だ。左手は、そうさな、ロッキーロッキードにレモシャベ、キャラメルリボンにチョコチップかな?」
 怒濤の注文にも店員は狼狽えない。周りの客は既に“ゴルゴシフト”である。彼の後ろに並ぶ者は誰もいない。
 封筒から商品券を取りだしてレジに差し出し、両手でバランスを取りながらゴルゴは店を出た。
 
 炎天下の公園のベンチを陣取って、アイスクリームを貪り喰う。
 肘まで垂れたアイスを舌でいやしく舐めながら、ゴルゴは呟いた。
「最初の報酬は当たり棒だったっけ」
 
 角砂糖ひとつで踊り狂う羆のように、アイスクリームで暗殺を請け負う彼を、人々はゴルゴ・サーティーワンと呼んでいる。
 
 



 
*参考文献
 
ザ・殺人術―殺されないための究極のノウハウ77課
ジョン ミネリー John Minnery 富士 碧
第三書館 (2002/06)
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