なかみがよっつのピーナッツ

 
 数年に一度ピーナッツ大の疣痔が出てくる、レア植物ですこです。
 
 姉と姪が帰省してきた。母に千葉名産の落花生を買ってくるように頼まれた姉は、荷物になるのが嫌だと言って、ぼくの家に落花生を送って寄越した。てっきり数袋くらいの小さな荷物が届くと思いきや、ダンボール一箱いっぱいに大量の落花生が届いたので辟易した。すぐさま姉に電話をかけると、「だって頼まれた分だわよ」と言うので、こんなに沢山の落花生を一体だれが食べるんだと訊いても、「そんなことママに訊きなさい」と一方的に電話を切られた。
 かつて病院に勤めていた母は、今まで自分がしてきたことを、今度はされる立場になってからは複雑な想いがあるようで、そのプライドの高さから“娘に持ってこさせた落花生”を病院中にバラ撒くつもりに違いない。青春期のぼくは、よく母に「この、いいふりこきのシラミたかり!」と罵倒された。意味は「いくら格好つけたところで虱が集ってるぜ」。どうやら、“いいふりこき”は遺伝のようだ。
 転院した所はリハビリ病院だが、ひとくちにリハビリと言っても様々なやりかたがあり、母は『回復期リハビリ』といって最もきついところに居る。これは転院前にソーシャルワーカーと相談してぼくの独断で決めた。「どこまでの回復をお望みですか?」と訊いてくるので、「元通りまで!」と即答しておいた。愚問だ。
 転院から一週間経過した頃、明らかに改善が見られた。麻痺が解けたのではなく、動く方の筋力がついているのだ。聞けば、なんでも自分でさせられるようで、ほんの数メートル離れたトイレから車椅子を漕いでベッドに戻るまでに、なんと四十分もかかったらしい。
 先日、普段はリハビリが終わった頃を見計らって病院に出向くのだが、時間がずれたようでちょうどリハビリ中だったが、見学することにした。ぼくと目が合った療法士は、「じゃあ休憩しましょう」と場を離れようとしたが、ぼくは「そのまま続けて下さい」と言った。こくりと頷いた療法士の口元が、少し歪んだのを確認した。
 療法士は「じゃあやりましょうか!」と言って、台座付きの杖を持ってきた。麻痺していない右手で杖を持ち、左半身は療法士が支えている。そしてゆっくりと前へ進む。左足は、療法士の爪先が後ろからさり気なく押しているように見えたが、注意深く観察していたぼくは確かに自力で動いたのを目撃して「おい! いま動いたぞ!」と大声をあげた。すると、母と療法士は醒めた眼でぼくを睨み付けた。その眼は「ハンッ! いまさらなに言ってんの?」という眼差しで、ぼくの驚喜は一気に赤面した。
 病室に戻って、母に「まじで治るんじゃねーの?」と興奮気味に尋ねると、「あたりまえよ」と言ったので少し泣きそうになった。
 
 四人部屋の病室には、これが凄い偶然で、前の病院で同じ病室だった〈I藤〉さんという八十六歳のおばあちゃんが、再度同じ部屋に転院してきたのだ。
 転院する当日、母は「I藤さんのベッド空けておきますからね」と冗句を言ったらしく、実際その通りになったので、お互いに驚いたらしい。
 四人部屋の中で寝たきりじゃないのは、母とI藤さんだけで、六十四歳の母は全入院患者の中でもかなり若いほうだ。転院当初は「うげっ! なんだこの終末感は!」と思っていたぼくも、いまでは慣れてきて同じ病室のおばあちゃんたちに対して愛着みたいな感情が湧いてきた。
 一人は明らかに重病で、常に目を瞑りながら、それでいて両手をあげてクロールのように泳いでいる。船を漕ぐというのは居眠りの比喩だが、クロールだとむしろ覚醒に近い。この人は、絶対に起きている。
 もう一人のおばあちゃんは、常に目が開いている。とても愛嬌のある顔で、ぼくは初見からこのおばあちゃんに一目置いていた。眼球は動かせるが、体はほとんど動かないようだ。けれど、ぼくと母が話していると、明らかに聞いている風な、きょろきょろとした目の動きをする。さんざん母の見舞いに行ってるぼくは、じつは母と話すことがあまり無い。だからぼくは最近、このおばあちゃんの目の動きが見たくって、母のお見舞いに行っている。
 I藤さんは、いつも聖書を読んでいる。清潔な病院ではぼくのようなやさぐれ臭が目立つのかもしれない、I藤さんはいつも一番最初に振り向いて、ぼくに笑顔を投げかける。絵に描いたような穏やかさを保っているI藤さんは、テレビのCMに出られるくらいに“日本のおばあちゃん然”としていて、美しい。
 I藤さんはぼくのことを「ぼっちゃん」と呼ぶ。最初に聞いたときは、ぶふっ! とお茶を噴いたが、考えてみればぼくよりも五十四歳も年上なのだ。ということは、母より二十二歳も年上で、母の母、まさしく“おばあちゃん”なのだ。自分の親と同じ年齢の人たちと一緒の境遇にいる母の気持ちを察すれば、落花生をバラ撒きたい“ヤングな気持ち”も解る――いいふりこきたいっ!
 
 帰り際、ぼくはいつも素っ気なく「じゃあ帰るわ」と言う。すると母は決まって「気をつけて帰りなさいよ」と言う。その左奥ではクロールがはたと止まり、左手前では目がぎょろぎょろと動いて、聖書を閉じたI藤さんは「ぼっちゃん、また来てね」と言う。
 もはやぼくの目的は、母だけじゃなくなってしまっているのだ。明日も行かなきゃ。