熱帯夜の回想

 
 連日の蒸し暑さによって伸びきったキャンタマがムササビ状になっている、モモンガですこです。間違えました、エロモモンガですこです。エロモモンガは常に、素っ裸にコートを羽織っています。じつはわたくし、若かりし日に『いんきんたむし』に罹ったことがありまして、しかも運悪く海水浴に連れて行かれてしまったあの時は、海の潮が骨身に滲みましたねぇ――この話はかつてネットラジオで話したのでやめよう。
 千葉から帰省している姉に、眠れぬ熱帯夜の愚痴を言ってみると、きょとんとした顔のまま姪と鼻先を近づけて、「ちょー過ごしやすいじゃん!」と振り向いた母子のハーモニー。しかも彼女たちが泊まっている実家には、クーラーはおろか扇風機すらないのだ。慣れというのは怖ろしい。
 そういえば、今年の五月下旬に帰省してきた姉と兄は「寒くて眠れないじゃん!」と言って、親戚の家から電気ストーブを二台借りてきてガンガンに焚いていた。風呂上がりの兄は奥歯をガチガチいわせてストーブに両手をかざしていた。汗を噴きだしているのはぼくだけで、缶ビールのプルタブを引くと、二人同時にぼくを睨みつけた。慣れというのはまことに怖ろしい。
 
 確かに、真夏の関東はめちゃくちゃに暑かった――。
 まだバブルの名残があった高校三年生の夏休み、ぼくは神奈川に“出稼ぎ”に行っていた。叔父の会社では兄が働いており、「暇ならバイトに来い」と言われて、永続的な薄給の労働が苦手だったぼくは、短期集中で稼げるこの話は願ってもない好機だった。しかも往復交通費支給、宿泊無料の夕食付きときている。
 前回の冬休み期間にも訪れていたので、搭乗の手続きなんかはお手の物だった。羽田に着いて、機内を出ようと歩いていると窓の向こうにジェトエンジンが見えた。この異様な熱気はエンジンの余熱のせいだろうと思っていたが、外に出るとさらに暑かったので気が遠くなった。向かえに来ていた兄に「暑いねぇ」と言うと、「今日は涼しいほうだな」と言われて、ほんとうに気絶しかけた。「まずは社長んとこ行くか」と言って乗せられたのは、デコレーションされたトラックだった。排気音はまったく下品な爆音で、ルームミラーの近くには“紐”が垂れ下がっている。不思議に思って見ていると「引っ張ってみろ」と言うので、引いてみるとけたたましい音のクラクションが鳴り響いた。後で知ったことだが、トラックの脇にはトランペット状のホーンが計八個も積まれていた。
 
 叔父が営んでいた会社は電気工事で、バケット車をつかって電柱のケーブルを引くのが主な仕事だったと記憶している。叔父はぼくと血が繋がっていなくて、しかもヤクザ、それも若頭だった。噂を聞いていたぼくは、平身低頭で挨拶した。「おう! よく来たな!」とぼくの肩をばしばし叩いた叔父の第一印象は、「なんだ、いい人じゃん」だった。それに男前だった。一昔前の梅宮辰夫によく似ていた。
 家は一戸建てで、居間のテーブルには奥さん手作りの豪華な食事と、出前の寿司が並べられていた。「よし、喰え!」と叔父が言った刹那、兄は「じゃあぼくは失礼しますので」と言って逃げ去っていった。狼狽えたあと、豪勢な食事を前に思案した――「おれもいよいよ堅気じゃなくなってしまうのか」と。出されたものを喰わなければ殺されてしまいそうな気がしたのでやけくそで食べていると、いつのまにか叔父と奥さんはどこかに消えていて、一軒家の中では咀嚼の音だけがしおらしく啼いていた。
 食べ終えた食器は流し台に下げることを教育されていたぼくの音を聞いて、背後から奥さんの声が聞こえた――「そのままでいいの。さあお風呂に入りなさい」と。流れ作業のコロッケみたいに風呂場まで連れて行かれたぼくは、ラブホテルみたいに綺麗な湯船に浸かっていると、ヤクザもまんざらじゃねえな、と思った。浴室を出れば綺麗にピジャマが畳まれていて、脇には新品の折り目がついたトランクスもある。ユーティリティーのドアが開く音を聞きつけた奥さんは、「あなたのお部屋はこちらよ」と言って二階の一室にぼくを案内した。シングルベッド、小型テレビ、そして冷蔵庫まであった。ビジネスホテルなんか目じゃないぜ、とテレビをつける。ニッポンの中心部のテレビ番組は興味深く、当時は地方と比べて特に深夜番組の充実度が雲泥だった。たまたま演っていたB.B KINGのライブ映像を夢中で観ていると、階下から「まだ起きてるかー!」と叔父の怒号が聞こえたので、素早く部屋を滑り出て「はいっ! 起きてますっ!」と立ち膝のまま階段の下に向かって声を張り上げた。
「よし、乗れ」と言われた車はクラウン・スーパーサルーンだったと記憶している。「なんだよ、ベンツじゃねえのかよ」という色は、もちろん微塵も見せない。運転手はたぶん若い衆で、ぼくと叔父は後部座席に座っていて、終始無言だった。
 着いた先はホストクラブだった。店員の面々は今のようなチャラチャラしたホストではなく、どこか妖しく不穏で、裏社会の残り香があった。それでもひきつった、それでいて満面の笑みのまま、立ち膝でぼくたちのお酒を作ってくれる。ふと見ると、八十超えのおばあちゃんがミラーボールの下でホストと愉しげに踊っていた。夜の闇を目撃してひいてしまったぼくに、叔父は「よし、唄え」とおっしゃって、顎でホストを呼びつけた。蝶だったおばあちゃんは、数人のホストに諫められた様子で席まで連れて行かれた。
 BGMが止まり、マイクを手渡される。唄わなきゃ殺されてしまいそうな気がしたので、ミラーボールを頭上に、ブルーハーツの『青空』を唄いきった。
 
 ぼくが与えられた仕事はじつに簡単で、ケーブルが巻かれた直径一五〇センチほどのドラムの“御守”だった。うんと先まで伸びたケーブルがぴんと張ればドラムを廻す、それだけだ。たいして動かずとも灼熱地獄で、特にこういった仕事の場合は安全第一の謳い文句のもと、長袖にヘルメット、足下は安全靴という重装備が義務づけられている。動き続けている現場の主任はびしょ濡れを通り越して粉をふいていて、それを見た御守専門のぼくはなんだか申し訳ない気持ちになったが、あと数週間で北海道にとんぼ返りするぼくにとっては他人事だった。
 
 数日間、叔父の家にお世話になっていると、二階の他の部屋にも人がいることがわかった。ヤクザ兼従業員だろうと思われたが、ぼくはそれまで顔を合わせたことがなかった。
 夜中にトイレに行こうと階段を降りると、たまたま帰宅してきた若い衆と鉢合わせた。若い男の二人組で、彼らは二人とも頭髪を赤・金・緑の三色に染めていた。「やべえな」と思ったぼくは、途中まで降りた階段を引き返して彼らが昇ってくるのを待った。すると彼らはどかどかと急いで階段を昇ってきて「すいません」と言った。その息は酒臭かった。ぼくは小便を終えて、疲れた体のまま眠りについた。
 
 一週間が経った頃、朝六時に起きることにはすっかり慣れていた。迎えに来たデコトラに乗り、途中でコンビニに寄って朝食のスパゲティを食べる。仕事が終わって帰宅は午後八時、叔父はいつも不在だが、奥さんは常に家に居て、晩飯の用意をしてくれる。
 晩飯を食べて食器を下げることに対して、もう奥さんはなにも言わなくなっていた。そうして風呂前の小便をしていると、トイレのドアががんがんと叩かれて、叔父の怒号も一緒に聞こえた。便意を催した叔父が急いで帰ってきたものと思って「いま出ますっ!」と、ポコチンを絞りに絞った。
 ドアを開けようとするも、開かない。肩で押して開けると、足下にはカラフルな頭が転がっていた。もう一人のカラーヒヨコは、玄関の方に吹っ飛んでいった。
 なにが起きているのか解らなかったが、背後から見た叔父の体毛が逆立っていることは、なぜか解った。それはほとんどブチ切れた猫と同じ様相だった。泣き叫ぶカラーヒヨコを、有無を言わさずぐちゃぐちゃにしていた。数秒でその光景に慣れてしまったぼくは、居間を覗き見た。奥さんは何事もないように食器を洗っていた。振り返ると、フローリングは血にまみれていた。叔父はライオンだった。
 
 夕食時、いつもキッチンの脇に二人分の食事が用意されていたことは知っていた。ぼくはそれを叔父と奥さんの分だと思っていたんだが、どうやら二匹のヒヨコの分だったらしく、なんの連絡もないまま毎晩のように無下にしていたことに対してブチ切れてしまったらしい。しかしそれは奥さんが告げ口をしたんじゃなくて、滅多に帰ってこない叔父がたまたま覗いたごみ箱に手つかずのおかずが捨てられていてるのを目撃してそれを問いつめたから、に違いない。
 血まみれの雑巾を絞る奥さんの後ろ姿を遠目で見ながら、「ヤクザの女なんかなるもんじゃねえ」と強く思った。けれど、どこか清々しくて、畏れと同時に嫉妬も覚えた。
 
 日当一万二千円、計約二十万円に交通費を上乗せされて、ぼくは意気揚々とトーキョーの楽器屋に向かった。当時、ギター雑誌にばんばん広告を載せていた〈三鷹楽器〉に行って、ストラト・キャスターを現金で買った。ピックアップはUSA製で、十万円だった。ソフトケースをサービスさせて、ミュージシャン気取りで飛行機に乗り込んだ。
 カラッとした北海道で鳴らすシングルコイルの抜けの良さったらないね!――と言いたいところだが、同じギターが地元では八万円だったんだ。