箇条日記

 
 イ゙ーッ! ですこです。
 ぼくがもし億万長者だったのなら、世界中の入れ歯の老人たちにチュッパチャップスを配布したい。それぞれ、一生分を。
 
・昨夜は久し振りの残業で疲れ果てて、珍しく当日中に床につく。
 最近は眠りながらGyaOの〈よしもとお笑いch〉を視聴している。ぼくは元々、ベッドの上で落語を聞きながら眠りに落ちていたので、静かだと逆に寝にくい。パソコンのタイマーを一時間で切れるようにセットして、噺が終わってプスンとパソコンが落ちると同時に自分のスイッチも切れるこの快感。
〈よしもとお笑いch〉ではネタをやっていなくて、フリートークのみだ。千原ジュニアケンコバの才能は、やはりズバ抜けている。ネタはイマイチだが、ダイノジのフリートークもかなり面白い。あとはトータルテンボス。この二組の共通点は“コンビ仲がめちゃくちゃ良い”ということだろう。
 ぼくは、お笑いコンビは幼なじみじゃないとダメだと思う。遅くとも高校の同級生。「NSCで出会って〜」というコンビとは決定的に何かが違う。片方だけが売れるという昨今の似非ピン芸人ブームは卑しく、美しくない。片割れがR-1に出場することをぼくは絶対に認めません。
 相方が死んだらモジモジくんばりの黒い全身タイツで葬式に出向くのが、真の芸人である。社会から抹消されてしまうだろうその行為は、友のために死ぬことと似ている。
 
・今日は久し振りに早く終業したのでお見舞いへと出向く。
 母の同僚だったK賀さんが来ていた。K賀さんにはぼくよりも三つ下の息子がいて、もう何年間もNEETをやっているという。地元が同じだった彼を、ぼくはよく知っている。甘やかされた一人っ子の典型で、みんなにからかわれていた。母親同士が友だちだったぼくも、彼に苛立ち、サド心が刺激された。なんというか、振る舞いを見ていると「イ゙ーッ!」と頭を掻きむしりたくなるような衝動に駆られてしまうのだ。
 K賀さんが去ったあと、「母子家庭なのに息子がNEETで、生活はどうしてるんだ?」と母に訊いたところ、高収入かつ高額な退職金が下りて、いまは持ち家で暮らしてるとのことだった。K賀さんは看護士ではない。某医大病院の電話交換手で、年収は七百万。しかも路頭に迷っていたK賀さんを紹介したのは母である。
 そりゃ医療費も高額なはずだ。ぼくはやっぱり「イ゙ーッ!」となってしまう。
 
・同じ病室に入院している品の良いロマンスグレーで八十六歳のI藤さんは、某帝国ホテルオーナーのご婦人であることが判明した。どうりで。ご主人はすでに他界しており、ホテルも好機に売却したらしい。現役時代は自らもテレビのCMにも出ていたとか(APAかよ)!
 それを知って以来、「ぼっちゃん、またきてね」に返答する「はい、また来ます」という台詞に、「ちったあ遺産よこせ」と心の叫びを混ぜておくことにしている。
 
・生命保険の用紙を読んでいると、やっぱり保険会社って成り立たないんじゃないか? と思ってしまう。毎月一万円を支払って、それを三年間続けると三十六万円になるわけだけど、仮にそこで死んで五百万円おりたとしたら四百六十四万円の損失になるわけだ。
 集めた資金をいくら運用したところで、絶対に破綻すると思うんだけど、どうなんでしょう? ぼくそういうことに疎いので。
 これは知り合いの保険屋、それも有名な生保会社の支店長から聞いた話なんだけど、外交員の研修期間は三ヶ月で、その間に身内や知人の契約を取ってこさせて、あとはさようならだって。飛び込みで契約が取れるなんてのは希で、こうなると巷で噂の“枕営業”も真実味を帯びてくる。
 じつはかつて姉が保険の外交員をやっていたことがあって、ぼくもそれに加入させられたことがある。こうなるとね、マルチ商法や、選挙の時にだけ急接近してくる某カルトと同じ匂いがしてくる。成立しないものを、なぜわざわざ成立させようとするのか。
 
・久し振りに自炊するべく、帰りにスーパーに寄る。
 小松菜、しめじ、手揚げ、納豆、塩鯖の切り身、豚ロース、鶏の腿肉を買い込む。
 最初に挙げた野菜と揚げは味噌汁の具で、さまざまな組み合わせを試した結果、この黄金律を発見した。揚げとしめじを入れると、味噌汁がめちゃくちゃに旨くなる。きのこ類はいわずもがな、揚げからもダシのようなものが出ている――ような気がする。
 納豆と鯖はセット、豚ロースは生姜焼き、腿肉二枚は唐揚げと、親子丼とかしわ蕎麦に分ける。
 レジにカゴを置いて、バーコードを読み取っている間に頭の中で合計金額を算出するのが好きだ。財布を取り出し親指を舐めて、まずは札の数を決定する。十円以下とを隔てた小銭入れから銀色の硬貨をつまんで互いに擦る。移される商品が残り三つになった辺りで、十円以下の小銭に人差し指が触れる――レジの電光に出現した金額と合致したとき、ぼくは阿保みたいな顔になる。
 数分の退屈も耐えられない。
 
・独りでいることは退屈ではない。独りでいられないのなら、死んだほうがましだ。
 
・けれど、ぼくが淋しさを感じるときは、決まってみんなが愉しく振る舞っているときだ。
 
・最近、科学に興味がある。それは化学でも物理でもなく、人間の科学だ。
 人間の科学とか言ってしまうと無機質に感じるけど、実際はそうじゃないかも知れない、と思ってきた。人間を勉強している科学者は尊敬に値するのではないか、と思う。
 人が人を説明するとき、そこには強い“負の磁場”が存在している。占いなどで顕著だが、みんな占い師の苦言に怯える。そこで襟を正したとしても実行し続ける人は希で、今度は別の占いを試しては、また凹み、低確率の喜びを見出す。曖昧は曖昧なまま浮游してればいいのに、そこで断定されて、“背筋が伸びてしまうような気がする”。
 そこには、明確な根拠がない。科学――つまり、思考がない。何の根拠もないのに、どうして人が負に惹かれる必要があるのか!
 楽天主義に、占いは必要ない。ほんとうは喜びたいくせに、いつでもうきうきしている楽天主義を、「浅はかだ!」と糾弾したがるのはなぜだろう。どうして人は負いたがり、より重い負をしょっている人を羨望し、崇め、そのくせ同情、あるいは憐憫するのだろう。
 不思議でしかたがないけど、頭の中が、なんだか痒いんだ。
 
 たった独りの楽天主義者を、人はキチガイと名付けた。
 通称キチガイは、その不本意命名に「イ゙ーッ!」となる。