クラクラ日記

 
 枕カバーがコールタールと同じ匂いがする、ですこです。もういい。死なせてくれ。
 
 先日、姉と姪が帰省していた。
 姪は中三の受験生、そんな時期に来て大丈夫なのかと姉に問うと、「いいのいいの」と生来の軽いノリだった。
 去年の春にも来ていたのだが、姪が異様に幼く見えた。「中二病」という言葉があるくらい、中学二年生の頃というのは反抗期の真っ直中で、自我のカオスが炸裂して手当たり次第に攻撃し、汚い言葉で親を罵ったりもする。
 友だちといるとき、外で親に鉢合わせて「あら。晩ご飯までには帰りなさいよ」などと言われた日には、赤面で「んなもんいるかいっ!」と声を荒げたものだ(結局はチンして貪り喰うのだが)。
 とにかく、親と一緒にいるところを目撃されるのが嫌でたまらなかった。洗濯時に擦り切れたトランクスを発見した母が「ちょっとあんた。パンツ買いなさい。一緒に行くよ」と言って来たが、「おれはそれで構わない! 破れたパンツを息子に穿かせたくないなら自分で買ってこい! サイズは、Mだ!」といった具合だ。
 ふすまが開いて、袋に入ったパンツが放り投げられた。封を開けて、拡げたトランクスをかざしてみると、〈ドラえもん〉と〈さんまのまんま〉のパンツだった。ファンシー過ぎて頭がクラクラした。自室を飛び出して、台所の母に「おい! どういうつもりだ!」と、握り締めたトランクスを突きだして抗議した。母は無言のままぼくを押しのけて、台所下のみりんを取り出して、キンピラゴボウに振りかけた。「もっと、チェックの二枚組とかあるだろ!」と言うと、「だってあんた、いつもその番組見てるじゃない」。
「だからってパンツまで……」ぼくは声にならない叫びを呑み込んだ。
 部屋に戻って真新しいパンツを穿いてみる――なんて素晴らしい感触なんだろう。ぼくは新しいパンツを穿くたびに、ヤドカリの気持ちがちょっとだけわかる。
 
 成人するまでも、それ以降も、ぼくは自分でパンツを買ったことがなかった。母もそうだったが、特に姉が大のパンツ好きで、しょっちゅうパンツを買って寄越した。タンスには数十枚のパンツがあったので、しばらくは買い換える必要がなかった。
 そのあと、二十歳くらいの頃、彼女の所へ居候することになり、大量のパンツも持って行った。
 あろうことか、ぼくへの誕生日プレゼントは「大量のパンツ」だった。どうやら彼女は、ぼくがパンツコレクターだと思ったらしい。頭がクラクラした。
 居候の身だったヤドカリのぼくは、彼女のパンツを洗濯することもあった。屈辱感はまったくなくて、週に何度かの主夫生活が楽しくて仕方がなかった。
 パンティをベランダに干そうと拡げてみると、染みがあった。他のパンティも同じ所に染みがあった。
 うむ。洗濯機といえども、原理は他者と擦れ合うことによって汚れが落ちる仕組みなので、下着の場合は裏返して洗わなければ意味がない。
 裏返してから再度洗ってみた。染みはとても頑固だった。
 
 午後八時、仕事を終えた彼女が帰宅した。
 メニューは、茄子のベーコン挟み焼きと、プレーンオムレツだ。
「茄子って油を吸うからさ、皮の方を焼きつつ蓋をして蒸さないとダメなんだよ」
「うん」
「で、裏返して断面に熱い油を吸わせて完成だ。オリーブオイルがスマートでいいね」
「うん」
「オムレツはフライパンをガンガンに熱しないとダメなんだ。ぬるいからひっつくんだよ」
「うん」
「ただ、バターが焦げちゃうから、温度を憶えさせたフライパンを火から除けないと見た目が悪い」
「うん」
 彼女は黙々と食べている。ヤドカリは饒舌じゃなければならない。
 
 食べ終えた彼女に、切り出した――「そういや、パンティに染みがあったよ」
 彼女は、信じられないといった形相で、ぼくに箸を投げつけた。早足で部屋に戻って、シャワーを浴びた。なにをそんなに怒っているのかわからなかった。
 彼女がシャワーを浴びているあいだ、こっそりと脱いだパンティを拾って、鼻に押し付けて嗅いでみた。頭がクラクラした。臭かったわけではない。女の匂いに卒倒したのだ。
 シャワーから出た彼女は、パンティを顔面に圧し当てて酩酊しているぼくの背中を、濡れた掌で思い切り叩いた――「この、変態野郎っ!」
 結局その夜もペッティングして唇という名の内蔵と性器が触れ合ったのに、どうしてパンティの染みが気になるのか、ぼくは未だにわからない。
 この愛情表現は、なんらかのフェティシズムなのかもしれないが、名付けられることに対して安堵も嫌悪も覚えない。そんなことはどうでもいい。
 好きな人のすべてを知りたいと思うことは当たり前だ。
 
 匂いといえば、あるクリエイターから『匂いの出る液晶テレビ』の話を拝聴して、「キャハハハハ!」と嗤ってしまったことがあった。ありえねー、と思った。
 でも、である。
 色と同じく『匂いの三元香』があれば、可能かもしれない。べつに三つじゃなくてもいい。プリンタのインクと同じように『三元香』のカートリッジを装備して、あとはプリンタと同じようにパソコンが分析・調合すれば、夢の話ではない。
 問題は、『その元香がいくつあって、何の匂いなのか』だ。三つかも知れないし、百かもしれない。
 匂いというのは、脳の皮質を飛び越えて本能に突き刺さってくる。匂いによって鮮明な記憶が急浮上してくることは誰しもあるだろうし、たとえば韓国などでは祝い事のときアンモニア臭の強烈な〈エイ〉を食べる風習も、その匂いによって記憶を焼き付けているに違いない。。
 
 コリン・ウィルソンは、極めて不快な精神状態を「ゴムが焼けるにおい」と比喩した。同じく誰もが喩えるのは「髪の毛が焼けるにおい」だろう。あるいは「人肉が焼けるにおい」かもしれない。けれど、牛肉の焼けるにおいは食欲をそそるわけだ。
 家畜が焼けるにおいと、火葬場との違いにどうやって折り合いをつけるのかが課題かもしれない。また、においによって性別の判別が可能かどうか。「ナンプラーはちょっとエロいにおいがする」という民族間の嗅覚の違いも解消しなければならない。
 
 たぶん、近い将来、パソコンから匂いが出るでしょうね。でも、「長澤まさみアイコラからゴルゴンゾーラの匂いがしたぞゴルァ!」といった、個々の捉え方の違いによるトラブルが続出するでしょう。
 
 たまにですけど、文字でも匂いが出ますよね。
 小川国夫さんは、小説の中でこう書いたんです――
 
「彼の匂いがした。焼きたてのグラタンの匂いに似ていた」
 
 このフレーズ、ヤバイ。グラタン好きなら、なおヤバし。
 頭がクラクラする。
 
 あ、そうそう、姪の話だっけ。もういいや!