小説版『クリムゾン・ルーム』

 

 
 かねてから敬愛している高木敏光さんが書いた「クリムゾン・ルーム」という小説のゲラ本を頂いてから、十日あまりが過ぎた。翌日には読了し、数日後に再度読んだが、感想まで十日を要したのは本の厚さのせいではなく、この本が特異だからだ。
 あまたの私小説に書かれている内容の全てが事実でないことくらい、ぼくも知っている。けれど、著者の実名が主人公という小説は、たぶん初めて読んだ。
 そしてあろうことか、プロローグの段階で自分の尿を呑む、のだ。まいった。
 
 古参社員が出世し、中流以上の生活を手に入れてもどこか空っぽなのは、創造力の枯渇というよりも、郷愁に近いのかもしれない。寄る年波が集合太鼓のように迫ってくればくるほど、懐かしみ、むしろ自ら深淵へ進む。
 日の目を見る保証もないアニメーションを独学でひたすら作り続けていた主人公は、世界を憎んでいたに違いない。なぜなら、世界中がくだらない、毒にも薬にもならないようなモノで溢れていたから。
 その後、インターネットが普及して大きな『ステージ』ができあがる。そこに自ら創った作品を乗せてみた。さんざん怒り狂っていたくせに、いざ他人に見せる段になると不安でたまらない。やばいぞやばいぞ。こきおろされる。世界中の拳にフィストファックされちまう。どうしようどうしよう。小便ちびっちゃう。そうだ、得意技の飲尿で勘弁してもらおうか。もしかしておれが間違っていたのかもしれない。おれが節穴だったのかもしれない。
 はたしてその作品は、世界から賞賛されることになる。圧倒的なカタルシスで、ちびっちゃった。ジュンジュワー。
 
 表現者というのはそういうものでなければならない、とぼくは思う。
 ロバート・ジョンソンのように悪魔に魂を売るとか、親鸞の振り子の原理でもいいんだけど、わざわざ自ら孤独を選び取るという性癖は、すべての優れた表現者に共通しているだろう。
 賞賛されなければ自己の存在を確認できない、という言辞はあまり正確でないと思う。
 なにかを創ることでしか自分を肯定できない人って、絶対にいる。それが名作か駄作かは、あまり関係ない。それを世に問うとき、ちょっとだけちびっちゃうんだ。もちろん褒めてくれた人にはキスをしたい。20回くらい。
 
 
 以上がぼくの感想であります。途中で話が逸れてしまったような気もしますが、そのまま書いてしまいました。
 どうやら4月2日に発売されるようです。すべての表現者、つまり生きている人たちみんな、読んでみて下さい。
 
 クリムゾンルーム公式サイト