変態について

 
 現代において「変態」という言葉は、もはや賛辞に近いものがあり、変態を自称する者も数多い。実験のための実験、あるいは前衛のための前衛といった行為をしている人たちにそれらは多く、マイナーなものを模倣することが個性である、と大きな勘違いをしており、「感性」という名の模造刀をしたり顔で振り廻す――要するに、安易で中身がないのだ。
 
 本当に不幸な人は、人前に現れないし、本物の変態も同様である。変態は個性を超越しているし、“もはやその土俵にはいない”。自称変態には反吐が出るが、本物の変態には惹かれてしまう。貴石は少ないから価値があるのであって、たとえその光がいびつであっても、いやいびつであればあるほど、その奇怪な輝きに魅せられてしまう。
 しかしながら、本物の変態と対面したのなら、ぼくはビビッってしまうだろう。もしかしたら、エイッと腹を蹴り上げて走って逃げちゃうかもしれない。女走りで。
 
 ちなみにぼくは極めてノーマルな人間で、想い返してもあまり変態行為はしていない。強いていえば、少年期から思春期にかけてはちょっとだけ逸脱していたかもしれないが、それはおそらくほとんどの人が思い当たるだろう。
 人肌コンニャクは当然として、ロールケーキやアンデスメロンを使ってオナニーに挑んだこともある。ロールケーキに至っては、穴を空けたkyon2のポスターをあてがって挿入した記憶があるし、アンデスメロンの時は、種が尿道に進入してしまって取り出すのに難儀した覚えがある。
 そして高校生になって、或る変態のオナニー談を読んだ。それは、「銀蠅を捕まえて、両羽を千切り、亀頭の上を歩かせる」という凄まじいものだった。
 もうひとつは、なんの番組だったか忘れてしまったが、深夜番組で視聴者からオナニーグッズを募集するという企画だった。出来合いの物がほとんどだったが、ひとつ凄いのがあった。片方のストッキングに大量の皮付き枝豆が詰め込まれてる、という巨大な代物で、それは女性用だった。
 ぼくは素直に大人たちを畏敬した。
 
 風俗研究家で高名なのは、宮武外骨さんや梅原北明さんで(あるいは高橋鐵)、彼らは共に反権力の証としてエログロに執着した節もあるが、ぼくがかねてから敬愛している風俗研究家の下川耿史さんはちょっと色が違う。
 1942年生まれである下川さんの根底にあるテーマは一貫して『戦後の生き方』であり、生き残った人たちが焼け野原でどのような人生を歩んできたのかを風俗研究家の視点で書いているところが、有象無象との違いだ。
 mixiで外骨さんのコミュには900人もいるが、下川さんのコミュは12人しかいない。梅原さんにいたってはコミュすらない。おかげで絶版だらけの下川さんの古本を安価で買えるというわけだ(嬉しいやら悲しいやら)。
 
 そんな下川耿史さんが書いた『変態さん!』という本を読んだ。なんという直球だろうか。これが、頭ん中が水浸しになるくらい面白かった。
 変態さんのオムニバスになってるんだけど、そのどれもが異常に濃ゆくて、大人のぼくが読んでも「嘘だろッ?」と胸の裡で何度も叫んでしまった。
 中でも特に興味深かったものを紹介したい。無論、紳士淑女は読まない方が宜しい。立ち去りなさい! おっと、お待ちなさい。帰りにロールケーキと、枝豆とストッキングを買うのを忘れないよーに!
 
 
 昨今のペットブームの大半は小型犬だけど、いくら人為的交配を繰り返して成体を小型化しても、ちんぽは――いや、ちんぽと呼ぶのは露骨か。かといって陰茎と呼ぶのもかしこまり過ぎだし、ペニスじゃありきたり、ファルスじゃ気取りすぎだ。困ったな、どうしようか。そうだ、『千吉棒』と呼ぼうか、そうしようそうしよう。
 要するにちんぽ(やっぱりそれかよ)までは小型化できないわけだけど、これはべつにちんぽだけじゃなくて、たとえばチワワのおめめがクリっと大きいのは、眼球以外が小型化されたわけだ。たぶんだけど、生きていくために最低限必要なものは、人為的改造ができないんだと思うな。もっとも、人類が進化していく過程でちんぽを大きくする科学技術が発展すれば、ほとんどの男性は喜ぶんだろうけど(案外女性は悦ばない、らしい)。
 
 えーと、勘づいてる思うけど、獣姦の話をしまーす(ホームルーム始めまーす的ノリで)。はーい、ちゅーもーく(股間にロールケーキを挟みつつ)。
 
 犬が異常な早漏で、果てた後にちんぽが膨張するということは結構知られていると思うし、獣姦と聞くと男が犬とやっちゃうというイメージなんだけど、我々の漠然とした想像以上に女性の獣姦マニアは多いらしい。1980年代に報告された一介の獣医の話で年間4件だから、現在ならばさらに多くの獣姦マニアが存在してるだろう。
 しかしながら、女性の獣姦というのは、いささかリアリティがない。洋モノのエロビデオでも見ることができるが、企画モノというか、ショー的要素が強い。リアルでやっていたとしても、魔が差したときの一過性のものが大半だろう。
 
 
 徳島県の農村地帯で育ったH田J一さんが獣姦にハマったのは、中学一年生のときだった。
 クラスメイトがオナニーの話をしているのを聞いて興味を持ったH田さんは、夕刊配達のアルバイトのときに農家の裏で初めてのオナニーを試みた。
 チャックをおろしてちんぽをしごいてしると、農家の飼い犬が寄ってきて、鼻をくんくんさせながらH田さんのちんぽをぺろりを舐めた。H田さんは犬が大嫌いで、その時もちんぽを噛み切られると思って恐怖に打ちひしがれた。射精こそしなかったものの、恐怖のどん底でちんぽを舐められるという特異な経験は、H田さんの脳髄に染みこんで、居座ってしまう(これはいわゆる『吊り橋理論』の構図で、恐怖の中にいると、すれ違っただけで恋に落ちてしまうことによく似ている)。
 以来、H田さんは射精後の亀頭を犬に舐めさせるようになるが、恐怖心を克服するまでには半年を要した。そして一年後には、配達中のH田さんを見つけた犬たちがぞろぞろと集まってくるようになった。義理堅いH田さんは、すでに犬にもオナニーを施しており、その犬たちはなんの指示もなく片足をヒョイと上げるようにまでなったのだ――。
 
 
 この先も続くが、このへんで勘弁したろか。これ、地球愛ですよ。
 変態が陰なのではなく、変態にも陰と陽がある、とぼくは思う。
 変態は人生を懸けて没頭するし、それは当然職業選択も含んでいる。
 犬とまぐわうために新聞配達をしているH田さんは相思相愛だが、ロリコン教師なんていうのは『陰』の典型であり、そもそも犯罪行為であるし、それが許し難いのは、そこに権力が介在しているからだ。
 この本に書かれている変態さんたちは、どこか清々しく、滑稽で、そして眩しい。
 ぼくのような凡人が、生きる意味を考えたとき、最終的には申しわけ程度に、子孫を残すことかなぁ、なんて考えてしまう、そんな奴の子孫はいらねえ。
 それに比べて、変態さんたちのパワーには圧倒される。生きる意味や目標を明確に捉えている者だけが持ち得る矢のような姿勢と、解き放たれた者だけが知り得る恍惚とスピードで満たされている。
 
 嗚呼、変態さん。
 ぼくにちからを下さい。
 できれば、なるべく遠くから。
 
 

変態さん! (ちくま書房)

変態さん! (ちくま書房)