黒子の人権

 
 光市母子殺害事件の犯人に死刑判決が下ったわけですが、これは高裁での判決でありますから、最高裁で死刑が確定するとは限りません。しかし最高裁が高裁へ差し戻した際に下った判決でありますから、死刑判決の方に傾いていることには違いありません。
 戦後から現在まで、未成年者の死刑確定は4人いますが、内3人は既に執行されています。つまり、未成年といえども死刑になる前例はあるわけです。けれど、未成年が死刑になるにはよほど凶悪な罪を犯さない限り、死刑にはならないという“判例”があるのも事実です。有名なところでは『女子高生コンクリート詰め殺人事件』や『名古屋アベック殺人事件』ですが、途轍もなく凄惨な鬼畜の所業にもかかわらず、どちらも主犯は無期懲役です。
 遺族である本村さんが主張しているのもこの点で、「判例に左右されずに個別に刑を下すべきだ」と言っています。判例に従うのならば、未成年が母子二人を殺害しても死刑にはならないのです。彼はそれを一人で訴え続け、ついぞ司法を動かしました。これは凄いことです。
 
 ぼくはかねてから死刑制度には関心を持っていましたし、死刑制度には反対です。なぜ反対なのかといえば、以前に本村さんが言ったことにも現れています。
「犯人が死刑にならないのなら、彼に自由を与えて欲しい。私が自らの手で殺します」
 刑罰とは、国家権力による「復讐する権利の剥奪」であり、死刑とはその最たるものです。ですからぼくは、加害者の人権云々以前に、報復権の行使を訴えたいのです。「おれに殺らせてくれないか」と。
「なぜ人を殺しちゃいけないのか?」という問いは人類最大のテーマだと思いますし、ぼくにも明確な答えはありません。生きたいのなら殺すな、ということなのかもしれませんし、情死を含む相対死に或る種の美が宿るのも、そこなのかもしれません。
 
 じゃあ、殺っちゃいましょうか。法律は変わりました。量刑可能なものは相殺するべしです。殺人犯は一人殺しても死刑になりました。問題は4人殺しても一度しか死ねないことですが……まあ、堅い話は抜きにしましょうや。
 あなたは愛妻を殺害されました。一等親であるあなたに報復の権利はあります。さあ、犯人と対峙しましょう。相手は殺人経験者、人を殺すことがどういうことなのかよく知っているし、なんなら「ああすればもっとうまく殺せたナ」なんて考えてるかも知れません。憎いでしょう? さあ、殺っちまいましょう! え? もちろんタイマンですよ。え? 体力がない? じゃあ武器を渡しましょう。犯人が使ったのと同じメーカーの果物ナイフです。相手は素手にしときました。さあ、殺っちゃいましょう! え? 青龍刀がいい? そんな古風な武器はありません。拳銃でいいですか? いいのね? え? 犯人を縛り付けろ? んもー心配性だなぁ。わかりましたよぉ〜。おい、お前ら! 煙草吸ってないで犯人を縛りつけろ! さあ、準備は整った。殺っちゃいましょう、サクッと撃っちゃいましょう! そうそう、照準を合わせて、引き金を引く! え? カウントしろ? ったく……じゃあ行きますよ! イチ! ニィ! サン! ……ちょっとちょっとオニーサン! 安全装置解除しなきゃサ〜、ちょっと貸して、もうめんどくせえ、俺が殺るわ《パーン!》
 
 このように、厳密な意味での報復は不可能であり、復讐の権利を剥奪されながらも、報復権を国家権力に委任しているのです。
『では、誰がやるのか?』
 それは、“国家権力の最下層”である、末端の刑務官です。
 
 ぼくが死刑反対を訴える理由は、ここにも在ります。
 死刑制度の話になると人権問題が浮上しますが、刑務官の人権が無視されていることに対して、ぼくは物申します。
 なんの恨みもないどころか、毎日接して情が湧いてきた人間の首に、縄を括り付け、スイッチを押すんです。“執行手当”はおよそ2万円、他人のために他人を殺したのに、これっぽっちの報酬です。ゴルゴの夕食代にも劣ります。
 しかも昨今はどこの刑務所も溢れかえっているにもかかわらず、刑務官の人員はいっこうに増えない。態度が悪いので厳しく接していた男の出所の日が訪れた。頑張れよ、とは言ったものの胸騒ぎが収まらない。やつは別れ際にウインクしやがった。
 非番の日、家族で遊園地に行こうと電車に乗っていた。すると背後から肩を叩かれた。「やあ先生」
 振り向くとやつだった。気丈に「元気でやっているかね」とは言ったものの、膝が震え始めた。やつはガムをクチャクチャ噛みながら「可愛い娘さんですね」と言って娘の頭を撫でた。遊園地よりも二つ前の駅で降りる。ホームから見えた窓越しの男は、噛んでいたガムをつまみ出し、車窓に塗りつけて不適に嗤った。
「パパー、いまのおじちゃんだあれ?」
「パパの生徒さんだよ」
「なにをおしえたのぉ?」
 言葉に詰まった。
 タクシーで行きましょう、と妻は言って、財布を取り出した。そこにはあの報酬が入っている。人の死で得た金を遣って、死を疑似体験しに行くのだ。
 
 結論として、死刑の代わりに終身刑を設けるべきだとぼくは思っています。生涯を強制労働に費やし、僅かでもその賃金を遺族に渡すのです。はした金では浮かばれるはずもありませんが、長い年月を経て、加害者は必ず反省する、とぼくは思います。反省したとしても絶対に出られないのですが、それでも悔いると思いますし、それこそが改心なのです。
 未知の幸せをブチ壊した加害者が、長い年月を経てついぞほんとうの心の平穏を獲得した頃、なんの関係もない刑務官が死刑を執行しなければならないのです。
 そしてほとんどの教誨師は、こう言うのです――「常人では辿り着けない境地で彼は死にました」
 
 ぼくは、刑務官たちの人権を、大声で訴えます。