連想日記 〜N部長、お元気ですか。ぼくは元気です〜 の巻

 
 部屋の明かりが点きません。
 正確には居間の照明の豆電気しか点きません。暗いです。
 うちの居間には備え付けの照明がついていて、デザインはとても古臭いんですが、でもおそらく当時の最新型だった思われます。プチシャンデリアなのです。
 壁のスイッチを連続的に操作することで『蛍光灯2発、電球5発、これらを足したもの、豆電球』と切り替えることができるのですが、今は豆電球しか点きません。
 電気代を無視して合計200ワットの電球しか付けないのは、安定器の古さによる蛍光灯のノイズ音が気に障るからであって、特に蛍光灯のあかりを嫌っているわけではありません。安定器が古いせいなのか、どうも電圧が不安定なようで、以前なんかは電球を交換した途端に電球の中が真っ白になりましたからね。怖いです。
 さて、特に書くことがないのに無理して書くと、こうして生活感が滲み出てしまうので気をつけたいものです。
 
 生活感といえば、名古屋から旧友が帰省してたので、先日久し振りに地元の友人宅でお酒を呑みました。彼はどうしようもないくらいのアル中だったのですが、名古屋に行ってからは生き生きとしておりました。彼は深夜に帰ってしまったのですが、地下鉄で出向いていたぼくは、ダンボールしかない実家に泊まるのがいやだったので、図々しく居座り、気づけば朝になっていました。
 友人が船を漕ぎ始めたので、寝たふりを決め込むと、友人はやっとベッドに向かいました。「もう寝よう」とは、自分からは絶対に言い出さないタイプなのです。
 こっそり起きて、忍び足で家を出ます。朝陽が気持ちいいです。
 

 こんなに細い川でしたかねぇ。この川を境にスラムと中流が分かれています。中学校も分けてしまえばいいのですが、どうやら学校というのは幹線道路で分けるようです。
 

 ブレててすいません。ISO上げるの忘れてました。帰路の地下鉄で久し振りに眠ってしまいました。気持ちよかったです。帰りにコンビニで新聞を買いました。
 
 新聞というものは、メインはやはり他人の不幸が載っているわけです。ぼくは新聞を購読していませんが、もし購読しているのなら、新聞を読むために早起きをすると思います。それはまったく自発的な起床で、他人の不幸を早く知りたいという欲求によって目を覚ますわけです。これは経済新聞でも同じはずです。
 しかしながら、毎朝新聞を熟読したところで本当の目覚めは訪れない、という意味においては、新聞は確実にリサイクルしています。
 
 リサイクルの究極といえば輪廻転生ですが、ぼくはその考えには懐疑的です。過去よりも世界人口が増えている以上、成り立たないと思います、と言うと「いや、蠅だって来世は人間になるのじゃ♪」とか言われても、困ってしまいます。もう、面倒臭い。
 ですから、子孫を残すことがいちばん現実的だと思います。
 
 子孫といえば、衝撃的なニュースがありましたね。
 実の娘を二十数年間監禁した上で子供を数人産ませていた、というオーストラリアの話です。これはやばいです。カスパー・ハウザーに性を足して倍にしたような出来事です。
 日本では近親相姦がタブーとされていますが、本格的に禁じられたのは江戸時代からなので、意外と歴史が浅いのです。そしておそらく、現在の日本のどこかでも近親相姦は行われているに違いありません。そしてそれは『父親と娘』のみならず、『母親と息子』のケースもあるはずで、この場合は“男の被DV”と同じ構図で、非常に表面化しにくいのです。
「女の子らしく」という言葉がハラスメントになる現代においては、「男の子なんだから」という言葉もまた紛れもないパワハラです。
 母親と息子が近親相姦をする場合、父親が単身赴任で不在のときに起こるようです。息子はやりたくないですよ。でも母親を悲しませたくないからちんぽを挿入して腰を振るのです。勃起? しますよ、パンツが擦れたって勃つくらいの年頃なんですから。
 じゃあそれで誰かに相談するとしましょうよ。相手はこう言いますよ――「でも勃ったんだろ? うへへへ」と、誰も取り合ってくれません。あのレオナルド・ダ・ビンチですら「亀頭には脳がある」と仮定していたのですから。
 オーストラリアの件も、端から見ればタブーですが、当人たちの気持ちを窺い知ることはできません。なんせタブーの歴史は浅いのです。
 部屋に閉じこめておいて食事はなにを与えていたのか? たぶん豆料理で、それは軟禁豆……。
 実際のところ、現在でも未開の地では“長持ちさせるため”に「母親が息子のちんぽを手コキする」という因習もありますし、「男子の成人の儀式に大人たちのちんぽをしゃぶる儀式」だって存在します。
 そう考えていきますと、性的タブーの所以を知りたくなりますし、禁忌ゆえの耽美に惹かれる理由もそこにはるはずです。
 たとえば、これはぼくが中年だからというわけではないと信じたいんだけど、今は「空前の熟女ブーム」だと思います。熟女といっても、三十代ではなくて、四十代でもなく、なんなら“五十代が若い”のです。そしてそれを好む男性は、ちょうど母親と同じくらいの女性に惹かれます。この現象が、近親相姦の本能の顕れと見るべきか、母性の希求と見るべきか、ぼくにはわかりませんが、たぶん両方だと思います。というか、両者が混沌としていると考えるべきだと思っています。
 ぼくはかつて暗室ラボに勤めていました。
 確かに作品も焼くのですが、主な収入源、つまり金になる仕事の大半は、病院関係の写真でした。胃腸科のポジフィルムが大半でしたが、中にはグロテスクなものもありました。
 小慣れてくると、ネガをかざしただけで察しがつくようになります。いえ、封筒に書かれている病院名を見ただけでわかるようになります。
 暗室の入り口には、学校の音楽室に垂れているような黒く分厚いカーテンが二重になっています。レールはありません。それを腕で持ち上げて潜ります。埃が舞うので、しばらく待ちます。
 白黒とは違って、カラーの焼きは真っ暗闇で行うのですが、露光紙を出すまでの間、ネガを挟んで拡大し、ピントと色調節を行います。
 色調はある程度セオリーがあるのですが、ピントは逐一合わせなくてなりません。ルーペで覗くと、円い点があります。デジタルのドットは四角いのですが、銀塩の最小単位は見事なフルサークルです。そのふちのエッジが剃刀になるまで徹底的に調節します。
 ピントが合えば一旦消して、暗闇の中で露光紙を短冊状にザクザク切ります。それぞれの紙の裏に、CMY値と露光時間を%で記します。手強いときは数十通りです。
 短冊を密閉した箱にしまいます。その箱は、露光紙が入っていた箱を流用します。「デフォルトのままがいい」という、“カルピス飲み”の原理です。けれど、使っているうちに角が磨り減ってくるので、そうなれば黒い布テープで補強します。ビニールテープは光を反射するので、だめです。
 不思議なもので、ただの箱なのに、愛着が湧いてきます。愛用していた箱は、ほとんどテープで出来ていて、それは包帯で巻かれた透明人間のようでした。
 重たいカーテンを開けて箱を抱え、現像機へ小走りで向かいます。距離は約5メートル、当然そこも暗闇です。
 中ではローラーが回転していて、そこに短冊を差しいれます。出てくるまで数分かかるので、そこで一息つきます。流しで煙草を吸いましょう。ここを喫煙所にしたのはぼくです。他の人たちは中学生みたいにトイレで吸っていたのですが、ぼくは喫煙権を訴えました。
 現像の時間はちょうど煙草一本分なので、そろそろかなと向かうと、部長が短冊を手にとってまじまじと眺めながら呟きました「ですこくん、これは……!」
「なんなんでしょうね?」
「うむ。これはだな――」
 部長は変わった人で、レアな写真を蒐集していました。見せて下さいと懇願すると、「うひひひ。見たいかね?」と言って、勿体ぶりながら抽斗の鍵を開けるのです。まだインターネットが普及していない時代、それはそれは衝撃でした。
「ですこくん、これは死んでいるよ」
「でしょうねぇ」
「全身が鱗で覆われている」
「その鱗でピント合わせましたから」
「プロとしては懸命な判断だが……」
「だが?」
「お前、よくも冷静に焼けたな」
「あ、仕事でやってんのに」
「まあそう怒るなよ」
「焼きませんよ? 部長の分なんか」
「すまんかった。焼いてくれ!」
 
 ぼくは鱗にピントを合わせながら、土偶を想い出していました。原始人が安産を祈願して作ったものです。鱗に包まれた赤子は、ほとんど土偶でした。
 近親相姦の概念がない原始人は、それをしながら代償として土偶を作ったのではないか、と二十歳のぼくは独断しました。
 
 さて、土偶といえば(もうやめろ)