「博士! マイクロ波によって会席が回転を始めました!」

 
 休日もなく労働し、母上の夏服を送るべく実家へ向かう。大量の梱包済みダンボールを開封し、選別した三箱を元払いで送るというこの親孝行っぷり、どうですか。じつはほとんど叔母がやってくてれいたのだが……。
 どうやら叔母はまじで離婚を考えているらしい。
 還暦手前の女が朽ちたワンルームで独りで暮らし、毎夜サッポロソフトをあおる。悲しくないのに泣きながらトイレで嘔吐して、部屋に戻ると床に散らばった食べかけのかりんとうを踏んづけてしまい、少し流血した。「ちょっとーアンターばんそーこー!」、そう言った後の静寂が、心をちぢこませる。酷い二日酔いには慣れたが、朝食を二人分作る癖は直らない。余った食パンを千切って、近所の野良猫に与える日々だった。そのうち母猫が子猫を連れてきたので、裏切られたような気になった。だから、かりんとうをかわして昼寝した。明日のパンは焦がしてやろうと決意して。
 
 
 UNEMPLOYEDであるぼくが、吉兆みたいな高級料亭に縁があるはずもないんですが、女将は面白いなぁ。絵に描いたようなと言うか、漫画みたいな人ですよ。所謂『モンスター』とはそういう人たちを指すわけで、かつての風刺漫画は少数派を観察・提示して「いるいる!」と共感を得ていたんだけど、いまの時代はそういうことが成り立たないと思うんです。「もしかしたら使い回してるんじゃないか?」という空想が、現実になっていますからね。そういう情況で風刺による笑いをとろうとすると、たとえば『フルーツポンチ』のコントみたいになると思うんです。一個貼っておきます。
 

 
 彼らは面白いんですけど、ぼくにはちょっと解せないところがあるんですよ。彼らが題材としているのは常に自己完結型の人間ですが、それをコントのネタにするのはちょっと違うんじゃないかと思うわけです。自己完結型人間というのは善に近いわけで、それを風刺するのはいかがなものか、という疑問がぼくの爆笑を抑制するのです。一歩退いて見れば、自己完結型人間というのは非常に幸福な人たちであり、そういう彼らを嘲ることしかできないというのはちょっと違うのではないかと思うわけです。これはぼくが歳を取ったせいなのかも知れませんが、なぜか自己完結の人と演歌を重ねてしまいます。演歌の揚げ足を取って楽しいの? ということです。少し話が飛躍してしまいましたが、風刺の対象がどんどん減っていると思われますし、それは良質なボケが減っていることと比例していると思うのです。いまはもの凄い数の芸人がいる戦国時代ですが、ダウンタウンを越えるためのキーワードは、新しいボケの対象を探すことだと思います。それはなにか? ふふふふ、教えません(知らねーんだろ)。
 
 もちろん吉兆に行ったことはありませんが、昼食30,000円、夜食40,000円ですって。同伴もアフターもなし、もちろん手コキだってありません。この時点で考えられません。
「高級料亭のくせに使い回しか!」と批判されていますが、そういうお店だからこそ使い回しができたのです。
 会席料理なんてものを食べたのは温泉宿でしかありませんが、確かに手をつけない小鉢なりがいくつかありましたね。会席料理の特徴は「食べたくないものが含まれている」ことですから、温泉宿の一泊付きのセットではなく、メニューを見て選べるのならば絶対に会席なんか頼みませんよ。料理は完全に冷めているし、それを補うためなのか知りませんが、固形燃料を使ったちんまい鍋料理なんかあったりして、しかもそれがちっとも美味しくないんです。
 昨今の一泊夕食付きの温泉宿が激安なのは、会席料理という名にかこつけたお手軽料理のせいもあると思います。安いから使い回す、とは言いませんが、使い回し易い料理ではありますよね。小鉢がたくさんあったりして、明らかに手が付けられていない物は、やっぱり使い回したくなりますよ。
 ですからこの問題は金額ではなく、料理のフォーマットに依存すると思います。たとえば、ビックリドンキーのハンバーグディッシュのサラダが手つかずだからといって使い回すとは考えにくい。客は味噌汁も頼みましたが、たくさん余ってます。でも客が能動的に頼んだものなので、絶対に手はつけているはずです。
 つまり、安価であるほど使い回しが難しいということになり、会席料理という形式そのものが非合理的だと言えますし、祇園の遊女が言う「あんさん粋やおまへんなぁ〜」という紋切り型の台詞がそれを表しており、「せっかく粋がってみせたのに使い回してんのか!」という憤りが、今回の問題の本質ではないでしょうか。
 食べ残しならいざ知らず、手つかずの料理を提供する時点で、すでに間違っているわけです。ですからこれからの時代、高級料亭も『半田屋』方式を導入して、客が自らお盆を持って食べたい物を選べばいいんです。え? 半田屋の料理は冷めてる? 大丈夫、吉兆と同じレンジをご用意しておりますので!
 もしくは、会計時に食べ残しをチェックして割り引きましょう。その際、何度使い回したのかが判るように、アユの塩焼きに入っている切り込みが“正の字”になっていて、回数に応じて割り引き金額が変わります。正の字が四つ以上ついたアユを平らげた人には、ファンファーレと、ラッパのマークの正露丸をプレゼント。
 あるいは、「残ったアユはスタッフが美味しく頂きましたd(^▽^)b」という、午前4時のメール。
 そうですよ、手つかずの料理を使って賄い料理を作ればよかったんですよ!
 
 古い体質の無駄なシステムがもたらした悪害ですが、そもそも文化というものは無駄で成り立っているわけですから、ぼくは吉兆の件に関しては「まあいいんじゃね?」というスタンスです。つーか、行けませんから完全に他人事です。
 簡単には行けないところでしか、文化は創られていないのかもしれませんね。そこにノコノコと顔を出すと、ピシャリとやられてしまいます。上下分け隔てなく。