斧にまつわるエトセトラ
「そうしてワシントンは許されましたとさ」
男は絵本を閉じて、置き時計を見た。深夜の十二時を回っていた。
「さあ坊や、そろそろ眠りなさい」
子供は眉間に皺を寄せて、なにやら考え込んでいる。
「おじさん?」と男を見た。黒目がちの澄んだ瞳だが、五歳にしてはやけに大人びている。
「どうしてワシントンは許してもらえたの?」
男は少し嬉しくなった。所詮は子供、まだまだ幼かった。
「正直に言ったから許してもらえたんだよ」
子供はさっきよりも眉間の皺を深めて、問いかけてきた。
「だって桜の木はもう台無しだよ?」
「だからこそ許されたんだよ」
「じゃあ切り倒さなければよかったの?」
「まあ、そいうことだな」
「ふーん、へんなの!」
子供は頬を膨らませて、腑に落ちない様子のまま、タオルケットに潜り込んだ。
男が居間へ行って上着を羽織ると、ガタンと音が鳴った。小さく舌打ちした。
「おじさん、いまの音なあに?」
男は目頭を揉みながら「冷凍庫で氷が出来た音だよ」と応えた。
「えー、いつもと違う音だったよぉ〜?」
その声を聞いて、男の背筋に冷たいものがほとばしった。
「この冷蔵庫、最近調子が悪いんだよ」と言いながら、凶器を隠している部屋に向かった。
「あ! わかった! スイカでしょ? 食べたいな!」
「ああ、バレちゃったか」
そう言いながら、男は斧の柄を握り締めて、寝室へ向かった。
ドアを開けると、子供がベッドの上に立っていた。暗くてよく見えないが、笑いながら男を見ているようだった。
放心した男の手から斧が滑り落ちて、床に転がった。
「おじさん?」
問い掛けに、男は応えない。
「見たよ、冷蔵庫。ママの首があったよ」
男はうつむいている。
「そろそろ警察がくるよ」
男は顔を上げて、子供を見た。
「ぼくが通報したの」
男は斧を手に取った。
「おじさんがどうするのか見たかったから」
さらに斧を握り締めた。
遠くからサイレンが聞こえる。
子供はベッドの上でジャンプしながら、マンション四階のカーテンの隙間から下を見ている。
「来てるよ、おじさん!」
もはや殺意は消え失せていた。
「ぼくが時間を稼ぐから、おじさんはベランダから飛び降りるといいよ」
向き直った子供が、笑顔で言った。
男も少し笑った。
「それとも、ぼくも殺す?」
男は顔を上げて笑った。
サイレンの音が近づいて来る。
「おじさんもワシントンになれば?」子供は諭すように言った。
男は斧を持ったまま、背を向けた。
「坊や?」
「なあに?」
「ワシントンが許された本当の理由、教えてやろうか?」
「うん、教えて」
「ワシントンは斧を持ったままだった」
階段を駆け上がる音が聞こえた。
男は玄関の鍵を開けて、一度だけ深呼吸してから飛び出して行った。
男の絶叫と、けたたましい笛の音が聞こえた。
子供は冷蔵庫から首を取りだした。
立ち膝のまま両手で持って床へ垂直に置くと、すぐにゴロンと転がった。
子供は笑った。
銃声が鳴り響いた。