急にちょっとだけ関西弁

 
 仕事も一段落したのか(よくわからん)、実働5時間の日々であります。
 自分で自分の取り分を算出する。残業時間の計算は四捨五入ではなく、一捨二入であります。文句あっか。なんなら零捨一入ぢゃい。
 空いた時間を使って洗濯機をガンガン回し、部屋を片づける。
 開かずの間である洋間のドアを開けて、すぐに閉める。増えてる。なにかが増えている。いや待てよ、見間違いだろう、ともう一度開けてみると、やっぱり増えてる。煙草を吸って気を落ち着かせ、自分に言い聞かせる。あれは見間違いだ、と。深呼吸をしてもう一度開けてみる。やっぱり増えている。いや待てよ。脳内に残っている残像同士が交錯して増えているように視えているんだろう、うん、そうだそうに違いない。今度はさっきよりも勢いよくドアを開けてみる。吹き飛ばすようにして。やっぱりてんこ盛りだった。いや待てよ(もうやめろ)。
 
 
 煙草が切れたのでコンビニへ行く。近所には3種のコンビニがあるが(サンクスは潰れた)、ぼくはセイコーマートしか行かない。近年値上がりが目立つ玉子が10個で128円也。もやしは28円也。
 今頃になって自社生産を始めたセブンイレブンとは格が違うのだよ、ザクとは違うのだよ、ザクとは!
 しかも元々が酒屋なので、酒が安い。ぼくは甲類を呑まないが、自社ブランドの『長次郎』は有名メーカーのそれよりも安い。
 セブンスターを3カートン買い込む。
 いつも疑問に思うんだけど、1カートンのときは「ワンカートン下さい」と言うのに、それ以上になると「にカートン下さい」とか「さんカートン下さい」と、急に日本語になってしまう。せいぜい「ツーカートン」はありえるかもしれないが、ワン以外の横文字を混ぜてしまうとウィーザーのアルバムを想い出すのは、ぼくだけじゃないだろう(お前だけだよ)。
 
 ガソリンや物価の高騰やなんやらで騒いどりますが、ぼくの場合は煙草をやめれば全て解決するので、身に降りかかっているのにもかかわらずどこか他人事です。
 1箱1000円になるとか言ってますけど、ぼくはですね、是非ともそうして欲しいんです。100%やめることができるから。
 ぼくは、500円でもやめますね。日に2箱強吸う人間としては、月に30,000円強の出費ですからねぇ。だったら、やめて何かローン組みますよ。それも速攻で。そうすりゃやめざるを得ません。灰皿のない新車でも買いましょうかね。
 なにより、こんだけ嫌われている喫煙者が、消費税の肩代わりをさせられていることに激しい怒りを覚えますし、にもかかわらず感謝どころか嫌悪されるわけですから、まったく非道い話ですよ。
 押し付けておいて唾を吐きかける。こんなことをやってるから世界中で争いが絶えない、ということに嫌煙者がまったく気づいていないということに対して、二重の怒りが噴出するわけです。
 
 未だかつて禁煙を試みたことがないので自信はありませんし、同時に禁煙者へ対する憧れもまったくありません。禁煙ってのは“なにかをやめる”だけの話であって、新たになにかを始めるわけじゃないんですよね。禁煙に成功した人を褒め称えるとか、そういう土俵にいると、やめることは難しいと考えています。
 おそらくは代償行為が必要でしょう。嗅ぎ煙草でも噛み煙草でもいいんですけど、もっと別の方に向かって行きたいですね。
 喫煙者の体内でニコチンが“快”に成り果てた以上、それを断たなくてはなりません。快を断つには苦痛が伴いますが、快を遠ざけることは容易だと考えます。
 ぼくが思うに、大仰に言えば「芸術は快楽を遠ざける」という側面があると感じています。
 禅問答みたいになってしまいますが、「快楽に没頭することによって快楽を遠ざける」ということです。代償行為に対して物質が寄与しない方法と言ってもいい。
 けれど、小説を読みながら煙草が吸えないというのは、完全なる拷問です。
 だったら、書けばいい。禁煙初期の人間の思考回路はある意味ラリってるので、もしかしたらバロウズを越えられるかもしれません。禁煙文学のヴィンテージ・イヤー。
 
 すべての喫煙者は煙草の害を承知して吸っているわけですから、これは『緩やかな自殺』と言えましょう。ニコチンへの依存と、微かな自己破壊欲求が混在していると思われます。
 この『緩やかな自殺』を取り上げられた人たちは、一体どこへ向かうのでしょうか?
 
 
 嫌煙派がそうするように、世界のナベアツのギャグが問題になっているようです。
 アホになることが障害者の差別を助長している、と。3とその倍数だけでもダメだ、と。
 粗探しに正義感を見出している輩には閉口してしまうんだけど、ちょっとだけわかる部分もありますねぇ……。
 このギャグは小中学生の間で爆発的に流行ってるらしくって、もしぼくが思春期だったのなら、確実にやってますからね。
 
 ぼくが中学生の頃は、近所のちんまい長崎屋に行けば何人かの知的障害者に出会うことができました。学校で出会うことはありませんでした。
 最初は「な、なんじゃコイツは?」と思ってたんですが、呼んでもないのに寄ってくるんですね。
 我々はイカツイ格好で長崎屋のゲームセンターにたむろしてたんだけど、彼は寄ってくるんです。パシリにしようにもまったく使えなかったので、放っておきました。最初はからかってたんだけど、飽きちゃうんです。
 他にもたくさんいて、ぼくは元来の性分なのか、そういう人たちの噂を聞けば飛んで行きました。一度目撃したかったんです。そして友情が芽生え――なんていうドラマはありません。奇異な者を奇異な眼で見ていたに過ぎません。
 思い返せば、ひどい差別を沢山してきました。無知は罪、とはまさにこのことです。
 けれど、ぼくは「ガキに言っても無駄だぜ?」とも思います。“そういう時期”で、奇異を奇異として捉える時期なんです。
 親が「コラ!」と叱って、
「だってアイツ、なんか」
「コラッ! それ以上言うな!」
「や、だってどう見ても」
「コラーッ!」
 と言ったところで、無理問答でしょう。
 
 差別について叱られたことでよく憶えているのは、小学生のぼくが長袖のジャージから腕を抜いて腹に仕舞い、余った袖をブンブン振り回していると、「やめなさい!」とビンタを喰らったことです。「腕のない人が見たらどうすんの! バチーン!」と。
 ぼくは、まったくそういうつもりはなかったんですが、よく叩かれましたね。
 それから十数年後、総合病院に勤めていた母は精神科へ異動になり、ぼくが「大丈夫なの?」と心配すると、「手当が2万つくからむしろラッキー☆」との発言を聞いて、親子が逆転しました。その言い方はないだろう、と。
 
 ぼくが言いたいことは、ナベアツを批判する人たちが自分の少年時代とちゃんと対峙して言ってるのか、ってことです。ほんの少しでも自己批判は必要だと思いますし、それがない人の発言は、ただのロボット・トークです。
 よく「最近の若い者は〜」などと言いますが、ぼくはアレがいちばん嫌いなんですよね。
 夏も近く、気の早いガキどもが深夜にロケット花火を飛ばしています。
 うるさくて眠れません。飛び出して行ってブン殴ってやろうかとも思いましたが(逆にやられてしまいますが)、昔のぼくも彼らのように花火を完遂していて、どこかのオヤジが何回も寝返り打ってたんだろうな、とおかしな回想をしているうちに眠りにつくことができます。
 ぼくはですね、断ち切るものは何も必要ないと思いますし、それをやったところで、たぶん無意味だと思います。
 
 ぜんっぜん関係ないけど、サンダル買いました。いま届きましたてん。

ビルケンのTATAMIですわ。タタミって、英語で書くとちょっと面白いやんか。
 
 オチ? うん、ないっ!
 強いて言えば……うーん、ないね。いや待てよ、探せばあるだろう。もう一度考えてみようか。うーん、むつかしいなぁ。何と何をこう、うーん、やっぱ無いです。いや待てよ、思考の残像がむしろ邪魔をしている。もう一度考えてみよう。こう、なんつーか転覆力みたいなものがありそうだけどな。うーん(もういいわ)