理解と個性

 
 コインランドリーに行って寝具一式を洗う。
 以前に行ったのは、確か正月だったか。ということは、半年間も替えていないわけです。いいんです、別に。
 我が家にはベランダがないので、今回は掛け布団を高温の乾燥機にブチ込んでみました。高速回転の中で布団が破れたら羽毛が飛び出して絶景が撮れるぜ、と思いカメラを構えていたんですが、大丈夫でした。
 ちなみに敷き布団はありません。ベッドです。買ったばかりの頃、知人が連れてたバカ犬が小便を垂れやがったので、大きな染みが残っています。あの時はショックだったぜ……。
 ちなみに、ベッドの内部にはスプリングが入っていて、夜中に屁をこくと若干スプリング・リバーブが掛かります。これは本当です。
 しかし乾燥機という物は便利ですなぁ。一体型のやつ買おうかな……。
 我が家にはベランダがないんですわ。こないだなんか、近所の強者が車のボンネットに布団を掛けて干していました。ご丁寧にペットボトルの重石を置いていたので、こっそり蓋を開けて布団にこぼしてやろうかと思いました。
 
 なんか足が冷たいなと思っていたら、台所の下から水が漏れていた。桶に溜めた水を一気に流すと、洗剤の泡と一緒に逆流してくるようです。
 ペンライトを照らして覗いてみると、乱雑に巻かれたお粗末な布テープが破れていることが原因のようでした。大家に知らせるまでもないので、ホームセンターに行くことにします。
 ぶっといビニールテープと、ギター改造のために半田グッズを買い込みます。
 隣の西友にある無印良品に行ってパンツと靴下、でっかいフロアクッションと麦茶を入れるようなポット(名称わからん)を買います。
 階下のスーパーで、キーコーヒーのアイス専用の珈琲豆を買います。これを先ほどのポットに落として、たくさん作り置きをするという算段です。
 缶コーヒーとか紙パックに入った珈琲って、あんまし美味しくないんですよ。つーか、不味い。
 これがね、自分で落として作れば喫茶店と遜色ないアイスコーヒーが出来るんですわ。コツは豆を惜しみなくドッサリ使うことですね。氷を入れるので、がっちり濃いめで作るんです。
 
 思い返せば、ぼくが小さかった頃はどこの家にも麦茶ポットがありました。ペットボトルに入ったお茶なんか存在していませんでした。
 今ではお茶のペットボトルが当たり前ですよね。そう考えると、飲料メーカーはお茶によってかなり売り上げが伸びたと思われますので、お金貸して下さい。
 様々なお茶が発売されておりますが、ぼくの友人夫婦はペットボトルのお茶を一切買わないそうです。節約のためではなくて、自分で煮出した方が圧倒的にうまいからだそうです。
 そりゃそうだろうなぁ。いい感じに濃くて、うまいんだろうなぁ――でも、めんどくせぇなぁ。
 
 最近、オカルトに興味があります。
 と言っても霊的なものではなくて、精神的なものです。けれど、双方が紙一重であることは、犯罪心理学からオカルトへ傾倒していったコリン・ウィルソンの軌跡によって証明されていると思われます。
 面白いのが、某画像掲示板のオカルト板にある『トラウマを刺激する画像』というスレッドで、決してグロではなくて、傍目ではどこが怖いのかまったく理解できないんですが、見ているうちにその恐怖を少しだけ共感できることでした。
 伝播というのか、勘ぐりの共有みたいなものが、徐々に立ち現れてくるんですね(理解と呼ぶには弱い)。
 ぼくにはサッパリわからなくても、ある人は「それわかる!」とその画像に素早く反応しています。そんな遣り取りを傍観しているうちに「どうやらなにかあるぞ?」と思ったわけです。
 そのサイトには、所謂メンヘルのカテゴリーがないので、必然なのか、精神的な話題も混在していました。
 そこで書かれていたリンク先がとても興味深いサイトだったので、紹介しておきます。
 
Dr.林の『こころと脳の相談室』
 
 このサイトは現役の精神科医が運営していて、『精神科Q&A』には1400以上にも及ぶ相談と回答が掲載されています。
 いくつか読んでみましたが、回答がじつに的確かつ真摯であることが窺えて、深夜まで読み耽ってしまいました。これは本当に貴重なサイトですし、医者である管理人は精神科医の鑑であると言えます。なぜなら、ぼくは彼を人格者だと思ったからです。
 
 1400もあるのですべては読んでいませんが、目立つ相談は「うつ」と「統合失調症(以下:統失と記します)」でした。
 現代は鬱の増加が騒がれていますが、彼は「擬態うつ病」という造語を用いて、マスコミを主体とした風評を批判しています。本当の鬱病が「甘えだ!」と非難されることに対して、苦肉の策で用いた造語だと思います。
 これはQ&Aを見れば素人でもわかるんですが、明らかな甘えも確かに多いのです。けれど、本当の鬱病も同じくらい存在していることも理解できます。
 彼はそれらを的確に判別して、「それは擬態うつ病です」と斬っているし、本当にうつ病の人に対しては「あたなはうつ病です」とアドバイスをしている。
 精神科医の判断に素人が共感するというのは馬鹿げているのかもしれませんが、ぼくは確かに共感します。
 サイト名に「こころと脳」と書かれているように、こころについては素人でも理解できると思えるからです。
「心だって脳の一部じゃねえか!」と言われてしまいそうですし、確かにそうなんですが、それでもこころはどこかに存在していると思わずにいられません。
 
 読み進んでいくうちに、とても興味深い相談を見つけました。
 
【1323】統合失調症である私は結婚し子どもを持つことができるでしょうか
 
 ぼくはこの人の相談を読んで、とても感動しました。
 発病後に取った行動の一部を抜粋しておきます。

最初に入院したのは7月11日でした。
その日は、朝、早く目が覚めました。
とても心が澄み渡っているような気がしていました。
シャワーをして(禊のつもりでした)、自分の一番気に入っているスーツを着て、 家を出ました。
切符を買って電車に乗りました。仕事に行くつもりでした。
電車の中で、涙が出ました。
一緒に電車に乗っている人々の苦しみや悩みを、私が抱えてあげる、そんな気持ちで泣いていました。
会社のある駅で、切符をなくしているのに気づきました。
(実際にはなくしてはいませんでしたが、そのときは見つからなかったのです)
駅員さんに申し訳ない、切符をなくしてどうしたらいいでしょうと問うと、「いいですよ」と、通してくれたので、助かったと思いました。
そして、道路へ出て、会社へ行くために歩き出したのですが、道の端に自縛霊がいるような気がして、私が清めて歩かなければいけないと思い、道(車道です)の真ん中をらせん状に歩きながら、会社を通り越し、四天王寺さんの境内で、踊りを踊りました。身体が勝手に動くのです。
私は悟った人だと思いました。
そうしてからまた車道をふらふら歩き、会社からずいぶん離れた駅の入り口で、動けなくなりました。
晴れた日ですが、傘を持っていましたので、傘を何度も地面に打ちつけ、靴を脱いで、植木のところに腰掛けているところを駅員さんと警察に保護され、救急車で病院に運ばれました。
病院では、私は真理に目覚めてしまったので安楽死させられると思い、ものすごい恐怖心がありました。
両親が現れて、両親とともに救急車に乗せられ運ばれていく中、私は両親を責めていました。
両親は心配そうな泣きそうな顔をしていました。

 全文を読めばわかることですが、周りの人がとても協力的なんです。なぜ協力できたのかといえば、病気に対する理解があったからです。そしてこの人自身がとても美しい人だと思えましたし、文章もしっかりしていて、精神のありようと、そのときの情景が目に浮かびます。
 
 うつが甘えであるとか、統失が凶暴であるなどという風評は無知のなせる悪業であって、実際はまったく違うわけです。
 なぜぼくがこう言い切れるのかといえば、かつて統失の人と同居したことがあるからです。
 
 その人が統失であることは、離れてから知りました。その後、ぼくは自分の無知にとても後悔しました。無知ゆえに辛くあたってしまったのです。
 それからは過去の醜態を取り返すように、統失に関する文献を貪り読みました。当時のその人の行動を照らし合わせてみると、おどろくくらい完全に一致していました。当時のぼくは「ずいぶんと神経質なやつだな」という程度にしか思っていなかったのです。
 無知なぼくには、その人の行動や発言がとても理不尽なものに思えましたし(実際理不尽なんですが)、またその人の“勘ぐり”がぼくに伝播したこともありました。
 反面、びっくりするくらい優しいときもありました。その優しさはほとんど無償の愛と呼ぶべきもので、あらゆるものを超越していました。
 
“勘ぐり”について説明しますと、いわゆる『強迫神経症』のようなもので、マリワナのバッドトリップでも同じような体験をすることができますし、シラフでも体感できます。
 かつて追われる身だったとき、窓から覗いて見える車のすべてがぼくを狙っていると思ってしまい、布団にくるまって息を殺す夜を過ごしたこともあります。
 余談ですが、覚醒剤を使用すると“勘ぐり”が顕著にあらわれるようです。つまり“疑似統失”になるのです。これは本で知ったのではなく、本人から聞いた話です。
 かねてから言っておりますが、覚醒剤は絶対にやめた方がいい。ただの一発でも、濃いのや、個人差によっては薄くともそれだけで発狂してしまう可能性が充分にありますし、それは一過性のものではありません。一発で終わり、です。これは、生で聞いた本当の話です。
 ぼくは薄いのを一発だけ射ってもらいましたが、「これはやばいぞ!」と二日間徹夜で覚醒と格闘しました。あのときケチってくれた後輩に、いまは感謝しています。
 
 ぼくがそれらを体験したからこう思うのかはわかりませんが、統失はそれほど珍しい病気ではないということです。統計では百人に一人と発表されていますし、それ以外を含めればもっと多いことは明白です。
 挙げたQ&A集の中に、こんな質問がありました。
「70歳の祖母が統失を再発したのですが、高齢でも治療をするべきでしょうか? それとも個性として受け容れた方がいいのでしょうか?」
 回答は、「個性として受け容れることも一理あります。しかしながら〜」と、続きは治療を勧めていましたが、それは医者という立場ゆえの蛇足であって、管理人は「そう! 個性なんだよ!」と言っているようにも思えました。
 ぼくが管理人を人格者だと思ったのも、この台詞によってです。
 
 かつて、老人医療施設で働いていた友人がこう漏らしていました。
「身障者はいいんだけど、精神になると利用者がみんな怯えちゃう」と。
 これは理解不足の典型だと思いますが、老人の再教育は不可能なのかもしれません。
 
 いまはまだ夢見話かもしれませんが、ぼくが老人になって施設にブチ込まれる頃には、統失もひとつの個性として認識されていることを願います。
 そうなると信じています。