軽薄の季節

 
 寒い。道産子が寒いと言うんだから、これは絶対に寒いのです。
 ホットカーペットを出そうとしても、元気が出ない。あらかじめセブンイレブンで買っておいた冷やしたぬきうどんを啜るも、寒くて食べきれず。何かがおかしいので体温計を探すも見当たらず、ギターアンプの裏側にピックと共に転がっていた。電池切れ間近なのか、薄い液晶は37.2℃指した。滅多に風邪をひかないので、微熱でも大いに凹む。
 やはり実家が寒かったのか。人が棲んでいない家というものはあれほどまでに、無慈悲に寒くなってしまうのか。最近、こっそりと廃墟を探している。写真を撮るためだ。そうか、実家を撮ればいいのだ。
 離婚を決意した叔母一家がイナゴの大群みたいに実家の家電製品をさらって行った。それは別にいいし、むしろ有り難いんだけど、叔母が心配である。還暦を前にして、あらためて独り暮らしができるものなのかしら。というか、家を買った息子の結婚が破談になったんだから一緒に住んじまえばいいじゃねーか、と助言したんだけど部外者には知り得ぬプライドがあるらしい。あのぅー、テレビはぼくが欲しかったんスけどぉー。ぼくんちのテレビ、1989年製なんスけどぉー。
 まあアレですなぁ、実家がなくなるっちゅーのは淋しいものですよ。嗚呼、もう帰るところがないんだな、と。大病を患ったら死ぬしかねえな、と。身の振り方を考えなきゃなんないね。まじで。
 うんと昔にN村さんに貸したのに、一向に返してくれないからキリンジの1stを買い直す。だから人にCD貸すの嫌なんだよねぇ。貸し合っこなら精神的相殺ができるからいいんだけど。
 もう十年前のアルバムなのね。いま聴いてもいい音楽だなぁ。とくに「甘やかな身体」は名曲だね。この頃は特に歌詞がスノッブで、甘やかだとか、からだを身体と書いたり、さすがに青臭ぇなあと思うんだけど、この頃から作曲能力は群を抜いてたな。確か小野島大だったと思うけど「おじさんたちにははっぴいえんどがいるけど、ぼくたちにはキリンジがいる!」と書いていて、あれは共感したな。これはアルバムを全部持っているファンだから言えることなんだけど、3rdをピークに確実に下降してるね。やっぱミュージシャンにも寿命があって、それは相当に短いんだよね。でも六十歳になったときにこの音楽を聴いても、新鮮に感動できるような気がする。そういう意味では、というかそういう意味でしか、ミュージシャンは偉大じゃないのかもしれない。あんなに才能あったのにあんまし売れなかったよなぁ(過去形かよ)。なんで売れねえんだよ、とか苛立ちと共にドギマギするんだけど、それって大きなお世話だよね。なんか年末に二枚組のベスト版が出るみたいなので、みなさん買いましょう――と収録トラックを調べてみたら「甘やかな身体」が入ってねえじゃねーか! 自薦か他薦か知らんけど、ぼくに選ばせろ! もちろん曲順もだ! それやっちゃうと売れないけどな! hahaha!
 しかしねぇ、三十路を過ぎた辺りから新しい音楽に対する興味が薄れてきたよね。これはたぶんみんな一緒だと思うし、そうじゃない人はより微視的になって行って、マクロというか、音楽全体を俯瞰できなくなっているように思える。ミクロの人にも、いわゆる純粋さみたいな物が薄れているようにも見えるし、代償として妙なプライドが疣みたいに湧いてくるように思える。つまり、ポップスでもアヴァンギャルドでも、その最先端が見えなくなっちゃうんだよね。バカラックライヒも、もはや古典であって、その先鋭性を模倣しても、それは先端ではないということ。じゃあいま最先端は何だと訊かれると、わかりませんとしか言えない自分に老いを感じちゃうわけだ。でも、これは考え方なんだけど、それというのは自分の好みがやっと見つかったとも言えるんだよね。好奇心という名のおもねりというか、迎合みたいなものが消滅したと考えることもできるんだな。そう考えると、未来は意外に明るい。そういう風に自分をキュッと締めてやると、あと十年は生きていけそうな気がするわけです。