鰹節殺人事件

 
 脳味噌って呼び方どうよ、ですこです。
 
 鰹節が切れたので、ほんだしで味噌汁を作ってみたんだが、まったく話にならないくらい不味かった。おおむね味オンチのぼくでも判かるくらいなので、雲泥の差と言ってもいいだろう。風味がぜんぜん違うのよね。ほんだし使うくらいなら、だし入り味噌を使った方がいいんじゃないかしら。
 ぼくの実家ではほんだしの味噌汁だったけど、いま想うと鰹節で取って欲しかったな。だって、せっかく野菜とか入れてるのに、ほんだしの所為で、ほんだしの野郎だけの所為で不味くなっちまう。それじゃ、野菜や味噌がかわいそうじゃないか。
 それならいっそインスタントの方がいいんだよな、ぼくの場合。これはたぶんぼくの基本的な性質だと思うんだけど、完璧主義者と呼べば聞こえはいいけれど、やるならちゃんとやろうぜ、という事なんだな。やらないのなら、テコでも動かない。絶対にやらない。
 鰹節で出汁を取るというのはたぶん少数派だと思うんだけど、そうしない理由は面倒だからというのがほとんどで、ぼくみたいな不精者でも慣れれば苦でないしそれに見合った美味しさがあるので、みなさんもやってみて下さい。
 料理番組みたいに布で漉す、なんて事はもちろんしない。クッキングペーパーで、それもティッシュタイプの、サッと取れるヤツ。吸収性がいいので、今度あれでオナニーの後始末をしてみようかしら。それじゃコッキンッグペーパーになっちゃうけど。
 最初は、破けるんじゃないか、と懸念してコーヒードリッパーで漉していたというのはここだけの話。
 
 そんなわけで全国の主婦の皆様、鰹節で味噌汁を作って、愛する旦那様を喜ばせてみてはいかがでしょうか――
 
 
 結婚六年目、子宝にはまだ恵まれていない。不能でも、病気でもない。それどころか、毎晩ベッドを軋ませている。六年もの間、定位置で負荷をかけられた四本足の下の畳は、まるでそれが生えてきたかのように窪んでいる。
 寝室の壁は、隣人のくしゃみが聞こえてくるくらいに薄い。玄関と居間の仕切のドアはなく、冬は冷気が入り込んできて、朝方には玄関に置いてある靴の爪先が凍結している。点検孔を開けて天井裏を覗いてみたが、断熱材は少ししか入っていなかった。北国の厳冬をしらぬ者が設計したか、あるいはオーナーがケチなのか。そのどちらもなのかも知れない。
 
 明美は専業主婦で、夫の隆史は会社員、中堅企業でSEをしている。
 二人が出逢ったのは共通の知人の結婚式だった。二次会で酔った隆史は、ゲームで負けて、罰ゲームのものまねをした。他のみんなは猪木や武田鉄矢などのありきたりだったのに、隆史が、桜金造がやるモスラを真似ているのを見て、明美は恋に落ちた。
 その夜の隆史は、ゴジラのように猛々しかったが、ことを終えた後は優しく髪を撫でてくれた。明美は、隆史のキンタマを握りながら深い眠りに墜ちた。その後、もう一度はじまった。
 
 ボロアパートを毎日掃除する事に、明美は疑問を抱かなかった。数ヶ月後にはここを出て分譲マンションを買う事になっており、毎日がここを発つ日のような感覚だった。
 ドイツ製のシステムキッチン、フローリング、不必要に高さがある重たいドア、ロスナイ、シャワーとカランが分かれたお風呂場、人感センサーで灯る照明、もちろんウォシュレット、マッサージ機能付き、なんならビデだって――。
 掃除を終えた明美は、木枠がカビで黒くなった曇りガラスの内窓を開けて、隣のマンションの外壁を隔てた、水垢が垂れた窓ガラスに自分を写して、深くお辞儀をした。
 新しいマンションの管理人に対する挨拶の練習と、このアパートに対する嫌味も含んでいた。含み笑いの自分に向かって言った。
「ありがとう。声も風も筒抜けだったけど、お金は貯まったわ」
 
 繁忙期は不規則だったが、隆史は午後八時には帰宅していた。退社前にはメールが届いて、明美はそれから晩ご飯の支度をする。
 炊きたてのごはん、アジの開き、肉じゃが、浅漬け、そして味噌汁。
 明美は、少量のごはんを口に運びながら上目遣いでそっと隆史を伺った。丸首が伸びたスウェットを着た隆史は、もりもりと食べている。
「どう? 美味しい?」
「うん。美味しい」と隆史は浅漬けに箸を伸ばしながら言った。
「なんか、いつもと違わない?」
 明美が問いかけると、隆史の咀嚼が止まった。明美は首をかしげて微笑んでいる。
 隆史は味噌汁を啜って「味噌を変えたのか?」と言った。
「お味噌は同じですぅ」
 明美は背筋を伸ばして、誇らしげに言った。隆史の箸が止まった。顔は血の気が引いて青白い。
 明美は狼狽えて、不可解に震える自分を、唾を呑み込んで更新してから言った。
「鰹節でお出汁を取ったのよ。それも、塊とカンナを買ってきて、自分で削ったの」
 隆史は、浅漬けに載った輪切りの唐辛子を見つめていて、こめかみには青筋が浮かんでいる。
「美味しいでしょう?」と言いかけた刹那、明美の後頭部は壁に穴を空けて、無様にめり込んでいた。
 やっと眼を開けると、天井では、端が黒ずんだ蛍光灯のちらついた光を浴びたお椀とお皿がスローモーションで宙を舞っていて、白菜の浅漬けはマスゲームのように規則正しく並んで、浮かんでいた。
 輪切りの唐辛子と蛍光灯を、天使の輪と重ねて、明美はおぼろげに微笑んだ。
 
「なぜ……」
 そう発したのは隆史だった。
「ここまで切りつめていたのに、なぜ……」
 明美は俯いて嗚咽していたが、それは押し殺した笑い声にも聞こえた。
「おれはほんだしでもよかったんだ!」
 そう吐き捨てて、隆史は寝室に行った。
 散らばったアジの破片を拾いながら、明美は白菜の芯を拾って食べた。隆史のすね毛か陰毛か、縮れた毛も一緒に口に入ったが、呑み込んだ。
 
 隆史の鼾が聞こえ始めて、それが規則正しく鳴るのを待った。
 枕元に立って見下ろし、自分も呼吸を合わせる。呼応して、より深い眠りに墜ちた。
 台所に向かって、鰹節の塊を握りしめる。ブリキ調のシンクの端を小突いてみる。硬い。さすが高価だっただけの事はある。
 鰹節を握りしめたままもう一度、枕元に立つ。呼吸を合わせる。単純だ。寝ている人間はみんなバカだ。なぜこの男は熟睡できるのだろう? バカだから? 明美の呼吸が乱れた時、隆史が寝返りを打った。
 尖った方を下に握りしめて、隆史の後頭部目がけてちから一杯突き刺した。
「えっ?」
 そう言ったような気がした。実際、隆史は振り向いた。引き抜いた鰹節を喉元に突き刺して、乱暴に抜いた。穴からゴボゴボと、血と気泡が吹き出してきた。喉の仏は留守だった。隆史は白目を剥いていた。さっきのアジみたいだ。バカめ。明美は白菜のマスゲームを思い出して、血に唐辛子を重ねて、規則正しく、突いた――「キムチみたい」
 
 夜窓には、昼間よりも鮮明に、血まみれの鰹節を握りしめた自分が写っていた。
 明美は、深くお辞儀をした。