リップ記

 
 灰皿に紅のついた吸い殻が。身に覚えはないし、その煙草はぼくが愛呑しているセブンスターだった。もしかして無意識のうちにアナルへ挿入したのだろうか。違う。冬である。寒さで唇が切れたのだ。リップクリームを買わねばならないのか。リップなどもう十数年使っていない。そういえば友人の伽藍堂は、寒くなるとよくリップを塗っていた。見てはいけない光景のように思えて、目尻で捕らえてはプププと笑っていたのだった。そんなにクチビルが大事かと。いや、大切だ。味噌汁を飲まなきゃなんないし、キスもしなきゃなんないから。しかしどうして人間はキスをして、そして燃えさかるのだろうか。これが山羊ならキスはしない。おもむろに背後から襲うのみで、その体勢ゆえに、時にはそのまま逃げられたりもする。ストンと前足を着いた雄の哀れなことよ。メェ〜だって。ばか。キスが燃えるのは、唇や舌が内蔵に近いからで、それは紛れもないセックスの前戯である。ゆえにリップクリームはエロく、常に臨戦態勢の伽藍堂はむっつりどころか、がっつりスケベだという結論に達する。そしてクンニを終えた伽藍堂が、コッソリとリップを塗っている光景を想像して、またプププと笑うのだった。キスの熱が冷めるのはいつ頃からなのだろうか。内蔵と内蔵が触れ合ったときに訪れる、あの胸の辺りがじとっと汗ばむ感じは、いつ頃まで続くのだろうか。老人たちはキスのときに入れ歯を外すのだろうか。眼鏡の人は外すことが密かな合図なのだろうか。盲目の人たちはまず指で互いの唇に触れ合うのだろうか。唇のない人たちはどうするのだろうか。体の一部に切り込みを入れて、「せーのっ!」で肉体をガバッと裏返して、そして一息に交わるのだろうか。なんか痛そう。終わったあとはやっぱり戻すのだろうか。どのタイミングで戻すのだろうか。煙草のフィルターに血がついていることに気づいたときだろうか。内臓に毛布が張りついたときだろうか。それともそのまま死んじゃうんだろうか。Rest In Peace.